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== 略歴 ==
[[オーヴェルニュ]]地方の[[アンベール (フランス)|アンベール]]生まれ。幼い頃から[[ピアノ]]や作曲に興味を示し、とくにピアノの腕前は天才といわれるほどであった。しかし、父親の強い勧めによって[[パリ]]で法律を学び、内務省に就職した。シャブリエは公務員生活を送る傍ら、[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]や[[ヴァンサン・ダンディ|ダンディ]]ら作曲家と親交を持ち、Edouard Wolffなどにプライベート独学師事し作曲の勉強をつづけた。[[エドゥアール・マネ|マネ]]、[[クロード・モネ|モネ]]、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]ら画家とも親しく、絵画の収集もしていたという。
 
1880年、[[ミュンヘン]]において、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の[[楽劇]]『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』を観たことで、音楽の道に専念することを決意したという。『トリスタンとイゾルデ』の動機を使った作品として、1886年に[[アンドレ・メサジェ]]との共作による[[連弾|4手]]のためのピアノ曲『ミュンヘンの思い出』が残されている。メサジェには、フォーレと共作した『バイロイトの思い出』(こちらは『[[ニーベルングの指環]]』を扱っている)という同趣向の作品もある。シャブリエは39歳で内務省を退職し、作曲家としての活動を本格的に開始した。
 
[[1888年]]に[[レジオンドヌール勲章]]のシュヴァリエ章を受賞したが、梅毒の進行性晩年は麻痺<ref>{{Cite web |url =https://academic.oup.com/ml/article-pdf/LI/2/198/9892458/198.pdf |title =... matter of Chabrier's syphilitic disablements |publisher =academic.oup.com |date = |accessdate =2018-12-12 }}</ref>に苦しみ[[1894年]]にパリで病没した。シャブリエは死の床で、[[パッシー墓地]]のマネの墓の近くに埋葬してほしいと遺言していたが、[[モンパルナス墓地]]に埋葬された。
 
== 音楽の特徴 ==
シャブリエは53歳で没したが、前半生はサラリーマンであり、作曲家としての活動期間は14年と短く、発表された作品数は限られている。狂詩曲『スペイン』をはじめとした管弦楽作品やオペレッタなどの作品があり、いずれも独特のリズムに加え、闊達さとユーモアを感じさせる。しかし、シャブリエの本領が最も発揮された分野は、ピアノ音楽と考えられている。その[[和声]]は「解決を伴わないドミナントの連続」を大胆に駆使したものあり、音楽史的にもフォーレとともに、次世代のドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しの役割を果たしている。
 
== 主要作品 ==
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=== 歌曲 ===
*6つの歌曲(1889年)
 
==脚注==
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
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* {{IMSLP|id=Chabrier%2C_Emmanuel|cname=エマニュエル・シャブリエ}}
* {{Find a Grave|7316}}
 
{{DEFAULTSORT:しやふりえ えまにゆえる}}
{{Normdaten}}
[[Category:フランスの作曲家]]
[[Category:ロマン派の作曲家]]