「近衛文麿」の版間の差分

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[[白洲次郎]]たちは近衞がマッカーサーに憲法改定を託されたことを宣伝して回り、近衞を助けようと試みたが、11月1日にGHQは憲法改正について「東久邇宮内閣の副首相としての近衞に依嘱したことであり、内閣総辞職によって当然解消したもの」と表明し、総司令部は関知しないという趣旨の声明を発表した。憲法改正をマッカーサーから依嘱されたものと信じていた近衞にとっては大きな打撃であった<ref>矢部貞治『近衞文麿』(読売新聞社)738-739頁</ref>。マッカーサーとの会見が行われたのは確かに近衞が東久邇宮内閣で副首相の職にあった時だが、憲法改正に関する詳細な打ち合わせを当局者と行った時点で近衞は既に東久邇宮内閣の総辞職によって私人となっており、声明はGHQが近衞の切捨てを図ったものであった。こののちGHQによる近衞の戦争責任追及が開始された。近衞は11月9日に東京湾上に停泊中の砲艦アンコン号に呼び出され、軍部と政府の関係について[[米国戦略爆撃調査団]]による尋問が行われた。尋問はかなり厳しいものだったようで、尋問を終えた近衞は「尋問はそれはひどいものでしたよ。いよいよ私も戦犯で引っ張られますね」との予測を述べている。GHQ参謀部第2部の対敵情報部調査分析課長の[[エドガートン・ハーバート・ノーマン]]は、大政翼賛会の設立などファッショ化に近衞が関与したこと及びアジア侵略・対米開戦に責任があることを指摘するレポート「戦争責任に関する覚書」を11月5日にアチソンに提出した。11月17日、アチソンはこれを[[バーンズ]]国務長官に送付した。
 
ノーマンはこの覚書の中で、一度も会ったことのない近衛について「淫蕩なくせに陰気くさく、人民を恐れ軽蔑さえしながら世間からやんやの喝采を浴びることをむやみに欲しがる近衛は、病的に自己中心的で虚栄心が強い。彼が一貫して仕えてきた大義は己自身の野心にほかならない」と述べている。ノーマンの近衛に対する心証は、家族ぐるみの極めて親しいつきあいをしていた[[風見章]]と、[[ハーバード大学]]時代の[[共産主義]]同志で義理の伯父に[[木戸幸一]][[内大臣]]をもつ[[都留重人]]からの詳細な情報提供によって形成されたのではないかと指摘されてる<ref>林千勝「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」『正論』2016年5月号、pp.85</ref>。
 
近衞は兼ねて[[1921年]](大正10年)の演説で、[[統帥権]]によって将来軍部と政府が二元化しかねない危険性を説き、後にそれが現実となった形だった。しかし当時連合国軍総司令部の中心となっていたアメリカ側にはこのような状況は理解し難い内容であった。