「信濃国」の版間の差分

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鎌倉時代末期、[[元弘]]3年/[[正慶]]2年(1333年)に[[後醍醐天皇]]が[[鎌倉幕府]]追討の宣旨を下し、[[足利尊氏]]、[[新田義貞]]ら有力御家人が幕府から離反すると([[元弘の乱]])、[[小笠原貞宗]]もこれに従って[[鎌倉の戦い|鎌倉攻め]]に加わり、後に新たな信濃守護に補任された。信濃守護を兼帯する[[六波羅探題|探題北方]][[北条仲時]]は京都から逃げ切れず自害に追い込まれた。[[東勝寺合戦]]では御内人の[[諏訪直性]]が得宗[[北条高時]]に殉じて自害するが、高時の遺児[[北条時行]]は諏訪氏に匿われた。建武2年(1335年)、[[諏訪神党]]の[[諏訪頼重 (南北朝時代)|諏訪頼重]]や滋野氏らは時行を奉じて挙兵し、[[鎌倉市|鎌倉]]を奪還したが([[中先代の乱]])、わずか20日で鎮圧され、諏訪氏らは自害し、時行は逃亡した。翌年に入ると[[北条泰家|北条時興]]が南朝に呼応して京都から麻績御厨に入って挙兵し(『[[市河家文書]]』)、小笠原貞宗や[[村上信貞]]の軍勢と衝突したが破れた。その後は[[吉良満義]]が守護となり、北条残党一掃のため[[吉良時衡]]が派遣された。
 
後醍醐天皇の[[建武の新政]]では[[公家]]中心の政治に対して[[武士]]の不満が高まった。[[延元の乱]]で尊氏が建武政権から離反すると、天皇方は鎌倉に向けて東海・東山両道に大軍を発し、[[忠房親王]]率いる東山道軍が[[大井城]]を落城させた。尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に入ると、[[吉野朝廷|南朝]]方の[[諏訪氏]]や[[仁科氏]]・[[香坂氏]]・[[根津氏|祢津氏]]・[[望月氏]]・[[海野氏]]らと[[持明院統|北朝]]方の小笠原氏や[[信濃村上氏|村上氏]]・[[高梨氏]]との間で抗争が繰り広げられた。暦応3年/興国元年(1340年)には、北条時行が[[遠江|遠江国]]から伊那谷に入り大徳王寺城に拠ったが、小笠原氏がこれを破った。観応元年(1350年)の[[観応の擾乱]]では南朝方[[足利直義]]派の[[諏訪直頼]]らも呼応して挙兵し、[[高師冬]]を討つなどの戦功を挙げ、直義が守護の任免権も掌握すると、観応2年(1351年)には直頼が信濃守護に補任されたが、尊氏派が勢力を盛り返すと[[薩タ山体制|薩埵山体制]]により守護は小笠原氏に復した。
 
南朝方は後醍醐天皇の皇子で、[[興国]]5年(1344年)から信濃に入国した[[征夷大将軍]][[宗良親王]](信濃宮)を奉じて、[[香坂高宗]]の拠る伊那谷に一大拠点を築いた。[[文和]]元年([[1352年]])には親王が信濃の南朝勢を糾合して[[武蔵野合戦]]に出陣したが敗北し、文和4年(1355年)の[[桔梗ヶ原の戦い]]でも小笠原氏に敗北すると、信濃における南朝勢力の衰微は決定的となり、諏訪氏や仁科氏なども北朝側に寝返って、ついには将軍[[足利義詮]]に従属するようになり、[[文中]]3年(1374年)親王も信濃を去った。信濃は[[暦応]]2年/延元4年(1339年)から康永3年/興国5年(1344年)までと、貞治4年/正平20年(1365年)から応安3年/建徳元年(1370年)まで、[[室町幕府]]から[[鎌倉府]]の管轄に移行したが、再び幕府に取り戻された。幕府と鎌倉府の融和によって、鎌倉府の推挙で[[上杉朝房]]が守護に任じられたが、将軍[[足利義満]]と公方[[足利氏満]]が対立すると、信濃は鎌倉府監視の最前線となり、鎌倉時代とは一変して、京都の政情が大きく影響するようになった。[[天授 (日本)|天授]]5年/[[康暦]]元年(1379年)の[[康暦の政変]]での大幅な守護改替により[[斯波義種]]が守護に補任された。