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'''澤登 正朗'''(さわのぼり まさあき、[[1970年]][[1月12日]] - )は、[[静岡県]][[富士宮市]]出身の元[[サッカー選手]]([[ミッドフィールダー|MF]])、元[[サッカー日本代表|日本代表]]、[[サッカー]][[コーチ|指導者]]([[JFA 公認S級コーチ]])・[[スポーツ解説者|解説者]]。
 
[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の初代[[Jリーグアウォーズ|新人王]]で、[[1999年]]には[[1999年のJリーグ#ベストイレブン|ベストイレブン]]、[[日本年間最優秀選手賞]]を受賞。[[1990年代]]の日本を代表する[[司令塔 (スポーツ)|司令塔]]の一人で、[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]の名手。[[1991年]]に創設された[[清水エスパルス]]の契約第3号選手(大卒第1号選手)で、クラブ一筋の[[フランチャイズ・プレイヤー|バンディエラ]]。1990年代後半、クラブ消滅危機に瀕したエスパルスにあって、[[キャプテン (サッカー)|主将]]として数々のタイトル獲得に貢献<ref>[[1996年]]シーズンから[[2000年]]シーズンまでキャプテンを務め、クラブ[[1996年のJリーグカップ|初タイトル]]や[[1999年のJリーグ ディビジョン1#年間総合順位|J1ステージ優勝]]、[[アジアカップウィナーズカップ|国際タイトル]]などの獲得に貢献。[[2000年代]]以降も[[FUJI XEROX SUPER CUP#クラブ別成績|スーパーカップ]]連覇や[[第81回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]優勝([[AFCチャンピオンズリーグ2002-2003|ACL]]出場)に貢献した。</ref>。「'''[[ミスター]]・エスパルス'''<ref>{{Cite web|title=クラブ沿革2005年|work=“ミスターエスパルス”として親しまれた背番号10のプレーヤー人生は、2005年シーズンをもって幕が下ろされた。|url=http://www.s-pulse.co.jp/club/history/2005/|accessdate=2017-01-13}}</ref>」と称され、全[[コンペティション]]115得点<ref>[[日本プロサッカーリーグ]]及び、[[日本サッカー協会]]主催試合(公式戦)111得点。[[アジアサッカー連盟]]主催試合(公式戦)4得点。</ref> ([[清水エスパルス#リーグ戦通算最多得点|リーグ戦85得点]])をマークし、歴代1位の通算得点数を誇っている。精度の高いパスとシュート技術を持ち、左右両足に加えて[[ヘディング]]での得点能力と[[ロベルト・リベリーノ]]仕込みの[[フリーキック (サッカー)|FK]]を武器に、中盤の選手ながら[[1995年]]から5年連続で公式戦2桁得点を記録<ref>[[2001年]]シーズンも13得点を挙げ、通算6季の公式戦2桁得点を記録した。</ref>。チームの司令塔として数多くの[[アシスト (スポーツ)|アシスト]]をマークした
高精度のパスとシュート技術を持ち、中盤の選手ながら高い得点力と[[ロベルト・リベリーノ]]仕込みの[[フリーキック (サッカー)|FK]]を武器に、[[1995年]]から5年連続で公式戦2桁得点を記録<ref>[[2001年]]シーズンも13得点を挙げ、通算6季の公式戦2桁得点を記録した。</ref>。チームの司令塔として数多くの[[アシスト (スポーツ)|アシスト]]をマークした。
 
[[サッカー日本代表|日本代表]]にも選ばれ、[[1993年]]の[[ドーハの悲劇]]を経験したメンバーの一人でもある。[[1994年]]の[[パウロ・ロベルト・ファルカン|ファルカン]]監督時代には、背番号10番を背負った経歴を持ち、[[2000年]]の30歳まで日本代表メンバーに選出された。引退後は[[テレビ]]や[[雑誌]]等でのサッカーの解説者として活動。[[JFAアンバサダー]]や、[[ハワイ州]]サッカー親善大使も務めた。[[2013年]]より[[常葉大学浜松キャンパスサッカー部]]の監督を務める。メディアによって、'''沢登 正朗'''の表記も見られる。
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== 来歴 ==
===生い立ち===
[[1970年]][[1月12日]]、[[静岡県]]東部の[[富士山]]の麓にある[[富士宮市]]に生まれる。幼稚園の頃からサッカーボールを蹴りはじめ、小学生時代は地元少年団(富士宮市立上野小学校)で活躍。地元の中学校にサッカー部がなかったため、12歳の時に親元を離れ東海大学第一中学校(現・[[東海大学付属静岡翔洋中学校]])へ進学し、サッカーを続けた。3年時は[[主将]]を務め、[[全国中学校体育大会|中学総合体育大会]]の県中部大会で初優勝に貢献。県大会は2回戦[[長泉町立北中学校|長泉北中]]に0-1で敗れ、全国大会出場は叶わなかった。中学時代での選抜歴は[[静岡市]]選抜だけで、特別目立った選手ではなかったという。また、東海大学第一中学校サッカー部では、後に[[サッカー日本代表|日本代表]]で共にプレーすることになる3つ年上の[[三浦知良]]が、ブラジルから一時帰国中に練習に参加したことがあり旧知の仲であった。
===学生時代===
[[1985年]]、東海大学第一高校(現・[[東海大学付属静岡翔洋高等学校|東海大学付属静岡翔洋高校]])に入学。
同級生には、元[[プロ野球選手]]の[[鈴木平]]がいた。静岡県の強豪校の一つでもあった東海大学第一高校サッカー部に入部して間もなく、当時の身長は160センチほどと小柄ながら、澤登のキックに多彩な種類があることに監督が目を止め、[[武南中学校・高等学校|武南高校]]との春季定期戦に[[ミッドフィールダー|MF]]として出場。ボールを受けたら、ミスが少ない。左右にボールを散らし、展開力もあった。その試合で[[司令塔 (スポーツ)|ゲームメーカー]]としての力を発揮し、5月に来日した[[三渡洲アデミール|アデミール・サントス]]と共に1年次から活躍を見せた。
 
[[1986年]]、過去4度にわたって決勝で敗れ、前年(1年次)はPK戦で涙をのんだ、当時、全国で勝つより難しいと言われていた<ref>『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』42頁</ref>[[全国高等学校サッカー選手権大会静岡県大会|静岡県予選]]で東海大一高の初優勝に貢献し、[[第65回全国高等学校サッカー選手権大会|第65回選手権大会]]に出場。2年生ながら高いテクニックと戦術眼を持ち、広い視野でゲームメイクを行い、4-4-2の[[サッカーのフォーメーション|布陣]]の中盤の底でレギュラーを務めた。チームメイトには、後にプロでもチームメイトになる[[内藤直樹]]、[[吉田康弘 (サッカー選手)|吉田康弘]]や、[[ドーハの悲劇]]を共に経験することになる[[大嶽直人]]、静岡県予選で得点王に輝いた[[平沢政輝]]や、[[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコ五輪]]で銅メダルに輝いた[[杉山隆一]]の息子の[[杉山淳一]]、選手権で生まれて初めて[[雪]]を見たというブラジル人留学生の[[Beleza]](ベレーザ)こと[[三渡洲アデミール|アデミール・サントス]]<ref>『王国が紡ぐ「黄金の歴史」静岡の高校サッカー』 51頁</ref>らと共に初の全国大会に臨んだ。[[徳島県立徳島商業高等学校|徳島商業]]や[[秋田市立秋田商業高等学校|秋田商業]]など全国の強豪を相手に初戦(2回戦)から4試合続けて3-0の同スコアで勝ちあがり、決勝では、こちらも初出場だった長崎県の[[長崎県立国見高等学校|国見高校]]と対戦。5万7千人が詰め掛けた[[国立競技場]]の[[観客席|スタンド]]には[[サッカーブラジル代表]]の[[アントニオ・デ・オリベイラ・フィーリョ|カレカ]]が観戦に訪れ、テレビ中継のゲスト解説はブラジル時代の[[三浦知良]]が務め、試合前にはロッカールームに激励に訪れた。試合は32分にアデミール・サントスのFKで先制すると、73分には澤登が[[コーナーキック|CK]]から2点目の大嶽の得点を[[アシスト (スポーツ)|アシスト]]。東海大一が2-0のスコアで完封勝利し、'''初出場・全試合無失点優勝'''<ref>初出場、無失点優勝は[[全国高校サッカー選手権]]において未だ破られていない記録である。</ref> という前人未到の快挙を成し遂げた。選手権優勝の影響は絶大で、大会後の県新人戦では会場の周囲がファンで埋まり、[[バレンタインデー]]にはチョコレートが大きなトラックで届くほどだったという<ref name="『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』43頁">『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』43頁</ref>。のちのインタビューでチームメイトであったアデミール・サントスは「ノボリ(澤登)と[[平沢政輝|平澤]]は女の子に大人気でちょっとうらやましかった、あの頃は普通に外出できなかったね(笑)。私はテレビで梅干しが好きだと言ったら、一生かかっても食べ切れないほどの梅干しが届いて驚いた。」<ref>『王国が紡ぐ「黄金の歴史」静岡の高校サッカー』 52頁</ref>と語り、澤登は「選手としての注目度も高まり、県の[[国民体育大会サッカー競技|国体]]代表にすら選ばれてなかった自分が[[サッカー日本代表#年代別日本代表|ユースの日本代表]]に呼ばれ、手のひらを返したように高評価を受けました。」「選手権に出場して自分のプレーを多くの人に見てもらった事で、その後のサッカー人生が大きく変わった」と語っている<ref name="『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』43頁"/>。
 
[[1987年]]は[[キャプテン (サッカー)|主将]]を務め、中原幸司、[[吉村寿洋]]、熊埜御堂智、[[篠永博之]]、[[吉田康弘 (サッカー選手)|吉田康弘]]、[[平沢政輝]]、濁沢一仁らと共に、冬の選手権に臨んだ。[[全国高等学校サッカー選手権大会静岡県大会|選手権予選静岡県大会]]の決勝では、[[国民体育大会サッカー競技|国体]]代表7人を擁する[[静岡市立清水商業高等学校|清水商業]]を敗り優勝。大会MVP、ベストイレブンに選ばれ2年連続全国大会進出を果たした。[[第66回全国高等学校サッカー選手権大会|第66回選手権大会]]では、準々決勝で[[礒貝洋光]]、[[森山泰行]]、[[本田泰人]]らを擁した[[帝京中学校・高等学校|帝京高校]]にPK戦の末に勝利。準決勝は[[全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会|インターハイ]]を制した[[船橋市立船橋高等学校|市立船橋高校]]を敗り決勝に進出。2年連続同一カードとなった決勝は、後に[[オリンピックのサッカー競技・日本代表選手#バルセロナオリンピック予選(1992年)出場メンバー|五輪代表]]や[[清水エスパルス|清水]]でチームメイトになる[[永井秀樹]]がいた[[長崎県立国見高等学校|国見高校]]に0-1で敗れ準優勝に終わった。連覇を逃して静岡に戻るとブーイングを浴びせられ「静岡代表は優勝しかないんだということをあらためて思い知らされましたね」と後に語っている<ref name="『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』43頁">『国立ファイナル全国高校サッカー選手権大会 1976年度以降、国立競技場で行なわれた全38の「高校選手権・決勝」を振り返る!』43頁</ref>。また、3年時は[[サッカー日本代表#年代別日本代表|ユース日本代表]]に初選出。静岡県選抜にも選ばれ[[第42回国民体育大会]]では、2年ぶり13回目(選抜チームとしては10回目)の[[国民体育大会サッカー競技#歴代結果|優勝]]に貢献。高校卒業直前に行われたヤングサッカーフェスティバルでは、大学4年生の[[清水東三羽烏|清水三羽烏]]を擁する大学選抜を静岡県選抜が4-2で下す[[番狂わせ|金星]]を挙げた。
 
[[1988年]]に[[東海大学]]に入学すると、攻撃的[[ミッドフィールダー|MF]]として、[[礒貝洋光]]と共に1年時からレギュラーとして活躍。数々のタイトルを獲得し、[[全日本大学サッカー選手権大会]]では4年連続<ref>入学する[[第36回全日本大学サッカー選手権大会|前年]]・[[第35回全日本大学サッカー選手権大会|前々年]](共に準優勝)を合わせると6年連続出場。入学した[[1988年]]の[[第37回全日本大学サッカー選手権大会|第37回大会]]で東海大学が初優勝を飾った。</ref> で決勝に進出するなど、東海大学の黄金期を築いた。[[第37回全日本大学サッカー選手権大会]]では、[[ハットトリック]]をマークするなど活躍し初優勝に貢献。1年生ながら大会[[第37回全日本大学サッカー選手権大会#最終結果|MVP]]に選ばれた。[[1990年]]の[[第39回全日本大学サッカー選手権大会]]では、準決勝で前人未到の4連覇が懸かった[[順天堂大学蹴球部|順天堂大学]]に、値千金のゴールを決め勝利に導くなど、2年ぶりの優勝に貢献し、得点王と2度目の[[第39回全日本大学サッカー選手権大会#最終結果|MVP]]に輝いた。[[1991年]]の第15回[[総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント]]では、前年の準優勝の雪辱を果たし、初優勝を飾った。在学時の[[東海大学体育会サッカー部|サッカー部]]には、同学年に礒貝のほか、[[加藤望]]、[[飯島寿久]]、[[後藤太郎]]。1学年上に[[山口素弘]]、[[岡中勇人]]、[[巻田清一]]。1学年下に[[橋本雄二]]、2学年下に[[田坂和昭]]等がいた。また、[[サッカー日本代表#年代別日本代表|年代別日本代表]]では、背番号10を背負い、[[AFCユース選手権]]や[[1992年バルセロナオリンピックのサッカー競技・アジア予選|バルセロナ五輪予選]]で[[キャプテン (サッカー)|キャプテン]]を務めた。[[1992年]]に[[東海大学]]体育学部卒業。
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== 選手時代の特徴 ==
精度の高いキックを武器とする[[司令塔 (スポーツ)|ゲームメーカー]]。足元の技術も高く、得点力と判断力を備え、[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]の名手でもあった。
ポジションは主にトップ下([[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|オフェンシブハーフ]](インサイドハーフ、トップ下)
[[サッカー日本代表|日本代表]]では、[[ミッドフィールダー#サイド・ミッドフィールダー|サイドハーフ]]や[[ミッドフィールダー#守備的ミッドフィールダー|ボランチ]]として出場したことがある。
 
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*協賛 - [[悦楽グループ]]
 
== 東北復興支援オープニングマッチ(NOBORI ALL STARS) ==
'''NOBORI ALL STARS 3-2 ザ・ミイラ'''
:得点者:田中誠(NOBORI ALLSTARS)、中田英寿(ザ・ミイラ)、中山雅史(NOBORI ALLSTARS)、中田英寿(ザ・ミイラ)、中山雅史(NOBORI ALLSTARS)
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*[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]「[[テレフォンショッキング]]」(1996年10月3日[[フジテレビ]])
*[[最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦|スポーツマンNo.1決定戦VIII]](1997年1月2日[[TBSテレビ|TBS]])
*[[ザ・ドキュメント]]「“第二の人生” サッカー元日本代表磯貝は今」(2002年7月21日[[関西テレビ放送|関西テレビ]])
*[[徳光&所の世界記録工場]]「パサール・オ・シルクロ」(2006年3月25日[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
*ミスターエスパルス・ 澤登正朗~栄光の軌跡~ (2007年2月17日[[静岡放送]])