「武田信興」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
{{Otheruses|江戸時代の高家旗本|戦国時代初期の真理谷武田氏の当主|真里谷信興|}}
{{出典の明記|date=2011年1月}}
'''武田 信興'''(たけだ のぶおき、[[寛文]]12年([[1672年]]) - [[元文]]3年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]([[1738年]][[8月23日]]))は、[[江戸時代]]の[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]]。[[武田信正]]の子で、[[武田信玄]]の玄孫にあたる。初名は信冬。[[仮名 (通称)|通称]]は虎之助、織部。
 
はじめは[[磐城平藩]]主[[内藤忠興]]のもとにあった。父信正の死後、[[柳沢吉保]]のもとに寓居する。[[元禄]]13年([[1700年]])12月27日、幕府に召し出されて、[[甲斐国]][[八代郡 (甲斐国)|八代郡]]内500石を与えられる。[[旗本寄合席|寄合]]に所属する旗本となる。元禄14年([[1701年]])1月15日、将軍[[徳川綱吉]]に[[御目見]]する。同年9月11日、表高家衆に列する。こうして[[武田氏]]は高家旗本として再興したが、信興自身は生涯高家職に就くことはなかった。[[宝永]]2年([[1705年]])8月19日、領地を[[相模国]][[高座郡]]内に移される。元文3年(1738年)7月9日死去、享年67。葬地は芝の西信寺。長男[[武田信安|信安]]が家督を相続した。
 
正室は[[大久保忠鎮]]の娘。