「福岡空港」の版間の差分

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→‎板付基地・板付飛行場としての歴史: 昭和32年のローカル線の記事を追加。
→‎板付基地・板付飛行場としての歴史: 1957年(昭和32年)8月1日 の記事について若干の補足。
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* 1957年(昭和32年)- 福岡市の各大学生らは、決起大会を開いて「原爆搭載機F100持ち込み反対」を決議し、福岡市議会も「F100による爆音の激しさによって、防音装置をした学校でも勉強できなくなる」とF100反対を決議した<ref name=":13" />。
* 1957年(昭和32年)2月26日 - [[C-47 (航空機)|C47]]輸送機とF100が空中接触して竹下西町の畑に墜落、付近の住宅2戸が全焼、1戸半焼<ref name=":10" />。
* 1957年(昭和32年)8月1日 - この時点でのローカル線は、[[極東航空]]による鹿児島 (所要時間1時間20分)、宮崎(同1時間45分)、大分(同40分)便が各1日1往復、[[デ・ハビランド DH.104 ダブ]] (定員10名) を使用して運行が行われていた。運賃は、鉄道 (急行を利用) に比べて、約1.2から1.4倍であったが、鉄道の場合は大分まで約5時間、鹿児島まで約7時間、宮崎にいたっては10時間もかかっていた<ref>航空技術 (33)、日本航空技術協会、1957/12、「空の白書:民間航空の現況(2)」、航空局、P25~32</ref>。
*1957年(昭和32年)11月13日 - 米軍機が補助タンクを吉塚5丁目に落下させ家屋1戸全壊し主婦1名死亡。他に家屋2戸に被害<ref name=":6" /><ref name=":10" />。
* 1958年(昭和33年)2月12日 - 度重なる事故による被害発生のため政府保証による、飛行場滑走路北側の二又瀬本町の集団移転が始まる<ref name=":6" />。