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元禄14年([[1701年]])3月14日、兄・長矩が[[江戸城]]において[[高家 (江戸時代)|高家]]肝煎[[吉良義央]]に刃傷に及んで切腹となると、長広や広島浅野本家、従弟の戸田氏定や安部信峯なども連座。また3,000石の所領も召し上げられた。その後、長矩の遺臣[[大石良雄]]らは浅野家再興運動を行っていたが、翌年7月18日に広島浅野宗家にお預けとされる。大石らによる吉良邸討ち入りがあったのはそれから5ヶ月後の事であった([[赤穂事件]])。なお長広自身は、お預かり中に宗家から1,000俵が支給された。
 
[[宝永]]6年([[1709年]])8月20日、将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年([[1710年]])9月16日には新将軍[[徳川家宣]]に拝謁して改めて[[安房国]][[朝夷郡]]・[[平郡]]に500石の所領を賜り旗本に復した。またこれとは別に浅野宗家からも300石を支給され続けた。ここに赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たした。享保9年([[1724年]])7月19日、家督を嫡男の長純に譲って隠居した<ref>『寛政重修諸家譜』第2集 364p</ref>
 
[[享保]]19年([[1734年]])6月20日に65歳で死去<ref>『寛政重修諸家譜』第2集 364p</ref>。兄や赤穂浪士と同じ高輪[[泉岳寺]]に葬られた。また四谷の妙行寺には室の墓があり、法名は蓮光院殿妙澄日清大姉。
 
== 関連項目 ==