「吉備真備」の版間の差分
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| 戒名 =
| 墓所 = 吉備塚([[吉備塚古墳]])
| 官位 = [[正二位]]・[[右大臣]]
| 主君 = [[元正天皇]]→[[聖武天皇]]→[[孝謙天皇]]→[[淳仁天皇]]→[[孝謙天皇|称徳天皇]]→[[光仁天皇]]
| 氏族 = 下道[[
| 父母 = 父:
| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 = [[吉備由利|由利]]、[[吉備泉|泉]]、
| 特記事項 =
}}
[[File:Kibi_Daijin_Seated_at_a_Chinese_Table_LACMA_M.84.31.239.jpg|thumb|220px|『皇国二十四功 吉備大臣』[[月岡芳年]]作]]
'''吉備 真備'''(きび の まきび)は、
==
[[下道氏]](下道朝臣)は[[吉備]]地方で有力な地方[[豪族]][[吉備氏]]の一族。
異説として[[加茂氏]]系図に、吉備彦之孫・(鴨の)[[吉備麻呂]]・右大臣という記載があり<ref>「加茂氏系図」(『[[群書類従]]』巻第63所収)</ref>、この人物が吉備真備であるという説がある。また[[賀茂保憲]]や[[賀茂光栄]]を吉備真備の末裔とする文献もある<ref>「右大臣吉備公傳」、[[平川親忠]]『古戦場備中府志』巻の五</ref>。
==
[[備中国]][[下道郡]](現在の[[岡山県]][[倉敷市]][[真備町]])出身。
[[霊亀]]2年([[716年]])[[遣唐使|遣唐留学生]]となり、翌[[養老]]元年([[717年]])に[[阿倍仲麻呂]]・[[玄ボウ|玄昉]]らと共に入唐した。帰路では[[種子島]]に漂着するが、[[天平]]7年([[735年]])に多くの[[本|典籍]]を携えて帰朝した。[[唐]]では[[経書]]と[[歴史書|史書]]のほか、天文学・音楽・[[兵学]]などを幅広く学び、帰朝時には
帰朝後は[[聖武天皇]]や[[光明皇后]]の寵愛を得て、天平7年(735年)中に[[従八位|従八位下]]から一挙に10階昇進して[[正六位|正六位下]]に、天平8年([[736年]])に[[外位|外]][[従五位|従五位下]]、天平9年([[737年]])に従五位上に昇叙と、急速に昇進する。翌天平10年([[738年]])に[[橘諸兄]]が[[右大臣]]に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉と
孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年([[750年]])には[[藤原仲麻呂]]が専権し、[[筑前国#国司|筑前守]]次いで[[肥前国#国司|肥前守]]に左遷される。天平勝宝3年([[751年]])には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年([[752年]])に再度入唐、阿倍仲麻呂と再会する。その翌年の天平勝宝5年([[753年]])に、[[鑑真]]と同じく[[屋久島]]へ漂着、さらに[[紀伊国
天平勝宝6年([[754年]])には[[正四位|正四位下]]・[[大宰帥|大宰大弐]]に叙任されて九州に下向する。天平勝宝8歳([[756年]])に[[新羅]]に対する防衛のため筑前国に[[怡土城]]を築き、[[天平宝字]]2年([[758年]])に大宰府で唐での[[安史の乱|安禄山の乱]]に備えるよう[[勅]]を受けた。その後、[[暦学]]が認められて、[[儀鳳暦]]に替えて[[大衍暦]]が採用された。
天平宝字8年([[764年]])には[[造寺司|造東大寺長官]]に任ぜられ、70歳で帰京した。同年に発生した[[藤原仲麻呂の乱]]では、[[従三位]]に昇叙して、[[近衛兵#令外官|中衛大将]]として追討軍を指揮して、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、翌[[天平神護]]元年([[765年]])には勲二等を授けられた。翌天平神護2年([[766年]])、称徳天皇(孝謙天皇の[[重祚]])と[[法王]]に就任した[[道鏡|弓削道鏡]]の下で[[中納言]]となり、同年の[[藤原真楯]]薨
神護景雲4年([[770年]])、称徳天皇が崩じた際には、娘(妹)の[[吉備由利|由利]]を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の[[光仁天皇]])の立太子を実現した。『[[水鏡]]』など後世の史書や物語では、後継の天皇候補として[[文室浄三]]および[[文室大市]]を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この[[皇嗣]]をめぐる話は『[[続日本紀]]』には認められず、この際の[[藤原百川]]の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い<ref>[[河内祥輔]]、[[瀧浪貞子]]など</ref>。
光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年([[771年]])に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年([[775年]])10月2日
[[奈良市]]内にある[[奈良教育大学]]の構内には真備の墓と伝えられる吉備塚([[吉備塚古墳]])がある。
== 人物 ==
公務の傍ら、[[孔子]]を
== 経歴 ==
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== 伝説 ==
[[Image:Kibino Makibi.jpg|thumb|150px|吉備真備、『[[前賢故実]](<small>江戸時代後期から明治時代</small>)』より]]
『[[江談抄]]』や『[[吉備大臣入唐絵巻]]』などによれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、[[鬼]]が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備と
真備が長期間にわたって[[唐]]に留まることになったのは、[[玄宗 (唐)|玄宗]]がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる。真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という[[音韻学]]に長けた少年を連れて帰朝したが、[[藤原長親]]によれば、この浄村宿禰という人物は、[[呉音]]だった漢字の読み方を[[漢音]]に改めようと努め、[[片仮名]]を作ったとされる。また、帰路では当時の日本で神獣とされていた[[九尾の狐]]も同船していたといわれる。
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== 系譜 ==
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*生母不明の子女
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**男子:[[吉備泉]](天平12年 - [[弘仁]]5年(740 - 814年)) **
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
*[[素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)|素盞嗚神社]]
*[[広峯神社]](ひろみねじんじゃ) - 真備が創建した姫路市の神社。[[牛頭天王]][[総本宮]]。
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きひ の まきひ}}
[[Category:吉備氏|まきひ]]▼
[[Category:吉備真備|*]]
[[Category:奈良時代の貴族]]
▲[[Category:吉備氏|まきひ]]
[[Category:奈良時代の学者]]
[[Category:8世紀の学者]]
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