「相原信作」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[ファイル:Manshū Medical School-old1.jpg|サムネイル|満州医科大学(現・国立中国医科大学)]]
京都府出身。父親は銀行員、母方の祖父は元[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]<ref>『ゆれる葦』網野菊, 講談社文芸文庫、1994, p290-292 </ref>。1929年京都帝国大学文学部哲学科卒。真言宗京都大学([[種智院大学]])講師を経て、1929年より[[中国医科大学#旧満州医科大学|満州医科大学]](ドイツ語、倫理、心理)の予科教授となる。作家の網野菊の作品を読んで感激し、手紙で求婚し、お互い顔も知らぬまま1930年に結婚<ref>『志賀直哉全集, 別巻』(岩波書店、1973.5~1984.7)p7</ref><ref name=takeda>『物語「京都学派」 - 知識人たちの友情と葛藤』竹田篤司、中央公論新社, 2001, p112-118「奉天の相原信作」</ref>。勤務先の[[奉天]]で新婚生活を送ったのち、[[第三高等学校]](修身)講師に転職のため1937年に帰国し、翌年離婚<ref>『神の慰めの書』 (講談社学術文庫、1985) 訳者紹介</ref><ref name=takeda/>。のちに友人の妹と再婚する<ref name=takeda/>。その後東海大学教授を経て、1949年大阪大学文学部教授、68年定年退官、名誉教授となり<ref>『大阪大学文学部50年のあゆみ』</ref>、晩年は甲南大学教授を務めた。
 
元妻の網野菊は、相原との失敗した結婚をもとにいくつか作品を遺している。また、京大の先輩だった[[下村寅太郎]]は相原のことを「俊才だったが少しもそのような風がなく、独自の風格を持っていた。時流の書物には全く関心なく、自分自身の関心のあるものしか読まず、それも大変簡素な種類と数のものであった。(中略)彼ほど寡欲な人間に会ったことはない。簡素質素が努めてするのでなく、それが彼の自然であった」と評している<ref name=takeda/>。