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家康は[[遠江国|遠江]][[浜松]]に移ったが、築山殿は後継ぎの信康とともに岡崎にとどまった。徳姫は天正4年([[1576年]])には[[登久姫]]を、天正5年([[1577年]])には[[熊姫]]を産んだ。しかし、徳姫がいつまでたっても信康の息子を産まないため、心配した築山殿は、元[[武田氏|武田家]]の家臣で後に徳川家の家臣となっていた[[浅原昌時]]の娘および[[日向時昌]]の娘など部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせた(『[[系図纂要]]』)。
天正7年([[1579年]])、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人医師・[[減敬]]との[[密通]]があったこと、[[武田家]]との内通があったことなど、12か条からなる[[訴状]]を信長に送り、これにより信長が家康に信康の[[処刑]]を命じたとされる。家康の上意により
{{see also|松平信康#信康自刃事件について}}
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