「関東学院大学」の版間の差分

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| 学部=[[社会学部]]<br />[[国際文化学部]]<br />[[経済学部]]<br />[[経営学部]]<br />[[法学部]]<br />[[人間共生学部]]<br />[[理工学部]]<br />[[建築・環境学部]]<br />[[教育学部]]<br />[[看護学部]]<br />[[栄養学部]]</td>
| 研究科=文学研究科<br />経済学研究科<br />法学研究科<br />工学研究科<br />
| 大学の略称='''KGU'''(商標登録番号5330921)、関東学大(かんとうがくだい)<ref>[[関西学院大学]]と区別する時に使われる。</ref>関学院大(かんがくいんだい)<ref>[[関東学園大学]]と区別する時に使われる。</ref>関東(かんとう)<ref>応援歌等で使われる。</ref>などがある。なお、「関学」「関学大」「K.G.」の商標は[[学校法人関西学院]]が平成7年以降持っているが、「株式会社関学サービス」は関東学院大学の食堂を運営しており「関学」名称使用商業目的以外において関東学院側が商業用途含み'''商標法32条'''に基づき'''先使用可能な略称であ権'''が認められる<ref>[http://www.kk-ks.co.jp/ 株式会社関学サービスHP]</ref>
| ウェブサイト=http://univ.kanto-gakuin.ac.jp/
}}
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====戦前====
関東学院は東京学院と横浜[[バプテスト教会|バプテスト]][[神学校]]を源流として1927年([[昭和]]2年)に誕生した。[[太平洋戦争]]前の旧制関東学院に入学した者は本気でキリスト教を学びに来た者がほとんどであり、神学部にいたっては当然、[[牧師]]や[[神学]]研究者になるための学部であった。1933年(昭和8年)に学生たちによる「国際親善は夕」を開催した時、多数の在留外国人(特にアメリカ人宣教師。なお[[ジェームズ・ハワード・コベル]]殉教した社会事業部生、神学部生が検挙された。新聞には大きく「関東学院神学部全滅」と大きく見出しが載った。「国際親善は夕」とはキリスト教平和運動であるが、[[特別高等警察]](特高警察)はこれを徹底的に弾圧した。神学部生に至っては安倍祐四郎という1人を除いて全て検挙されたという<ref>関東学院著『関東学院100年史』1984、pp387-388. </ref>。[[坂田祐]]はそれでも入学式・卒業式や[[学徒出陣]]の時に「[[インマヌエル]]」(「神偕にいます」の意)と述べたという。このように関東学院発足時には既に昭和の時代に入っていたが、戦争終結までは信仰心を持ちながら弾圧に負けぬ持ち主の集団であった。なお、「インマヌエル」は戦前・戦時中に関東学院に在学した学生の合言葉にもなった<ref>関東学院著『関東学院100年史』1984、p410. </ref>。1943年(昭和18年)に[[学徒動員]]の一環で関東学院、[[青山学院大学|青山学院]]は[[明治学院大学|明治学院]]に統廃合されたうえに、新たに関東学院航空工業専門学校設立となった。1944年(昭和19年)にはビクター<ref>当時のビクターは[[東芝]]グループで、戦後は[[松下電器産業]]グループとなる日本ビクター社の事</ref>が関東学院内に[[疎開]]した。関東学院生は[[日本ビクター]]社員と共に防空通信機材を作る事となった。[[日本本土空襲|空襲]]が関東学院を襲い、終戦を迎えた<ref>関東学院著『関東学院100年史』1984、p420. </ref>。
 
====終戦直後~オイルショック期====
終戦を迎えキリスト教への弾圧もなくなり平和なキャンパスの日々が来たのもつかの間、関東学院は極左集団・過激派による弾圧に襲われる。既に旧制専門学校時代である1948年(昭和23年)から[[大学闘争|学園紛争]]が過激化した<ref>関東学院著『関東学院100年史』1984、pp.576-577. </ref>。[[礼拝#キリスト教の礼拝|礼拝]]は毎日1限目と2限目の間の休憩時間に行われたが、1968年(昭和43年)に学園紛争で消えることとなる<ref>関東学院著『関東学院100年史』1984、pp.606-607. </ref>。このような軋轢の中で関東学院は1959年(昭和34年)に神学部を再建した。しかし関東学院にはさらなる悲劇が襲う。[[共産主義者同盟赤軍派|赤軍派]]の旗揚げ校にもなってしまった関東学院大は1968年(昭和43年)に青雲寮が3棟消失したことをきっかけに、主に過激派学生が大学解体を訴えた。それでも厳しい校則は健在で、たとえば[[寺内タケシ]]などはタバコを1本吸っただけで[[停学]]となっている。1969(昭和44)年には「闘うキリスト者学生同盟」によって神学館が[[バリケード]]封鎖された。授業どころではなくなり、関東学院大の心臓部である神学部は1973年(昭和48年)に消失した<ref>関東学院著『関東学院100年史』1984、p666. </ref>。最後は「かんらん寮」が、学生運動によって[[除籍 (学籍)|除籍]]されたはずの若者の巣窟になっていることから、1976年(昭和51)年に「かんらん寮」を取り壊す旨を伝えたが、過激派はさらに抵抗した。このため収束にはさらに1年後となった。このように戦後の関東学院の校風は[[オイルショック]]期まで学生運動派と、キリスト教・神学を本気で学びに来ている学生との「分断」が特徴となった。また関東学院実習工場は2部生のために作られたものであり、昼間働くことによって実質無料で大学を出ることができるシステムであったが過激派学生は「大学が金儲けするとはけしからん」と言って実習工場を攻撃した。このため関東学院実習工場は久里浜に移転した。こうして2部生と1部生との対立まで生み出し、学園内はさらに分断された。学生運動によって失ったものは神学部だけでなく、[[生活協同組合]](生協)も失った<ref>現在は株式会社関学サービスによる購買部の運営である。このような生協消滅大学は他に[[明治大学]]、[[日本大学]]、[[専修大学]]などがある</ref>。これにより校風から一時「自治」が失われていく事になる。また、学園紛争をきっかけに大学側についていた体育会を強化していくこととなり、これは関東学院大が体育強豪校となるきっかけにもなった。最終的には70年代後半において神奈川県警機動隊の突入により学園紛争は終結した。
 
====安定成長期・バブル期====
1973年に神学部を募集停止したが、学部、修士課程教育の修了は1970年代末である。バプテスト派の牧師は修士以上が原則のためこうなった。神学者養成としての博士課程が完全に了するのは80年代に入ってからである。このため学園紛争の傷は80年代に入っても続いた。一方学生側の敗北に終わったため学園全体でしらけムードが漂った。さらに1986年に釜利谷に文学部を移転した。しかし、このころになるともうバブル期であり、学生は個人主義で大量消費社会を謳歌する時代であり学生運動に興味を示すものなどほぼ皆無に等しい。それでも関東学院大は分離を進める。小田原市が造成費用と土地費用を無償提供する公私協力方式によって1991年に法学部が小田原に誕生した。しかも小田原市の土地の為政教分離の原則から「チャペルが無い」という異例のミッションスクールキャンパスとなった。1992年には関東学院大学が代ゼミ偏差値C判定(55%合格可能性)で文学部57、経済学部55、法学部55となった。B判定はもっと上の偏差値を取る必要があった<ref>[http://www.geocities.jp/gakurekidata1992/srank.html 代々木ゼミナール1992年偏差値]</ref>。この時代の関東学院の特徴は無宗教化、安定、分断、個人主義化であろう。なお、就職は空前のバブル景気によって好調であった。学園紛争のため関東学院大の中堅私立化は1980年代後半達成と遅れることとなった。
 
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* [[1952年]] - 関東学院経済専門学校廃校。これにより旧制教育終了。
* [[1957年]] - 工学部2部設立。2部生の関東学院実習工場受け入れを開始。
* [[1959年]] - 神学部再設立(ただし、新制大学としては初となる。[[日本バプテスト同盟]]が日本基督教団から再分離したが1958年のため関東学院大神学部再置は1959年と終戦から14年も経過してしまった。
* [[1962年]] - 経済学部2部設立。2部生の関東学院実習工場受け入れを開始。
* [[1963年]] - 学園紛争の激化等により関東学院実習工場が久里浜に移転。
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[[File:KGU odawara.jpg|thumb|260px|小田原キャンパス]]
*使用学部:なし
*使用研究科:工学研究科表面工学専
*交通アクセス:[[小田原駅]]より徒歩18分
 
小田原キャンパスは1991年(平成3年)4月に設置されたキャンパスである。2017年(平成29年)3月まで法学部が使用した。2017年4月より材料・表面工学研究所が使用する。2018年(平成30年)よりまた表面工学専の大学院生も使用する。相模湾と丹沢を一望できる丘陵地に立地をし、キャンパスの周辺は木々も多いため四季折々の自然を感じることができ、観光名所である[[伊豆半島]]や[[箱根]]などの[[温泉郷]]にも近い。
所在地は神奈川県小田原市[[荻窪 (小田原市)|荻窪]]1162番地の2。