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[[1877年]]、[[19世紀]]におけるアメリカの二大発明家でもある[[アレクサンダー・グラハム・ベル|グラハム・ベル]]が興した[[{{仮リンク|ベル電話会社]]|en|Bell Telephone Company}}が前身であり、[[1885年]]に世界初の長距離電話会社として発足。社長となった[[:en:Theodore Newton Vail|セオドア・ニュートン・ヴェイル]]は、One System One Policy Universal Service を掲げ、「[[垂直統合]]」と「[[水平統合]]」と呼ばれる研究開発(ベル電話会社、以下ベル社)から機材製造([[ウェスタン・エレクトリック]])、市内交換から長距離交換までの独占を展開。ネットワーク経済学における[[ボトルネック独占]]を見事に現実のものとした。翌年末に[[:en:John Elbridge Hudson|ジョン・ハドソン]]がベル社の管理者となった。ジョンは1887年にAT&T の社長となった。1899年12月31日にベル社はAT&T に完全買収された。ジョンは1900年秋に事務所で急逝した。1901-1907年、[[:en:Frederick Perry Fish|フレデリック・フィッシュ]]が社長を務めた。フィッシュは1890年から[[ゼネラル・エレクトリック]]の支配人として活躍しており、[[ジョン・モルガン]]とも付き合いがあった。フィッシュの任期にAT&T はモルガンと人的・資本的関係を深めた。1906年、AT&T1億5000万ドルの[[転換社債]]を発行、負債が8倍以上となる。翌年4月にフィッシュ辞任、ヴェイルが復任する<ref>山口一臣 [http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/118/118-yamaguti.pdf ベル・システムと独立電話会社の競争時代:1894-1906年] ([[成城大学]]) 3.ベル・システムの競争戦略と電話料金引下げ競争の実態(1)(2)</ref>。この状態で[[1907年恐慌]]を迎えた。
 
1909年に[[ウエスタンユニオン]]株を買収。ここで政府が、[[大西洋横断電信ケーブル]]のカルテルによる[[シャーマン法]]違反でウェスタンユニオンに訴訟を提起すると圧力をかけた。ヴェイルがウェスタンユニオンをカルテルから引き離すと、カルテル参加企業であった''[[:en:Atlantic Telegraph Company|Anglo-American Telegraph Company]]'' と[[ケーブル・アンド・ワイヤレス|ジョン・ペンダー]]系の''[[:en:Pender v Lushington#Facts|Direct United States Cable Company]]'' は立場が弱く、アメリカ市場を失うまいと自社保有の大西洋ケーブル通信網をウェスタンユニオンに貸与する羽目になった。AT&Tは1914年に株を売却した。結局は国内の電信企業がイギリスの通信利権を奪い取り独占力を強化した。