「イタリア社会党」の版間の差分

m
→‎相次ぐ党分裂: 内部リンク修正(イタリア人民党)
m (→‎下院: wikitable化)
m (→‎相次ぐ党分裂: 内部リンク修正(イタリア人民党))
1914年、第一次世界大戦とその後の社会混乱はイタリア社会党を更なる岐路に立たせた。自国社会の防衛や領土獲得を肯定する[[社会愛国主義]]と[[平和主義]]を標榜する[[国際主義]]との対立はそのままムッソリーニと社会党の対立に繋がった。党機関紙『{{仮リンク|アヴァンティ!|en|Avanti! (Italian newspaper)}}』の編集長であったムッソリーニは参戦主義を紙面で主張し、新たに参戦主義の新聞『{{仮リンク|イル・ポポロ・ディターリア|it|Il Popolo d'Italia}}』を創設した事で社会党を除名された。参戦主義者が追放された社会党はイタリアの参戦後も[[反戦主義]]を説き、軍務への不服従や脱走を扇動して戦争支持者から激しい敵愾心を受けた。[[国家サンディカリズム]]、[[国家社会主義]]、[[社会帝国主義]]の支持者は{{仮リンク|革命行動ファッショ|label=革命行動ファッショ|en|Fasci d'Azione Rivoluzionaria}}を組織して、教条的な社会主義に固執する社会党と対峙した。
 
1917年、大戦で疲弊した[[ロシア帝国]]で[[暴力革命]]による帝政廃止が成功し、[[ソヴィエト連邦]]が成立した事は民主主義を否定する革命社会主義を勢い付かせた。社会党はひとまず[[ソヴィエト連邦共産党]]を支持してブルジョワジーとの対決を声明したが、社会民主主義による議会活動も継続された。1918年、第一次世界大戦が協商国の勝利に終わり、イタリアは[[戦勝国]]となったが戦費負担や領土分配での不満などによって政府への不満が高まった。1919年、社会混乱が続く中で行われた{{仮リンク|王国代議員選挙|en|Italian general election, 1919}}で社会党は労働者層の支持を集め、156議席を獲得して第1党に躍進した。新たに結党されたキリスト教民主主義政党・{{仮リンク|[[イタリア人民党|en|Italian People's Party (1919-1926)}}|イタリア人民党]]も第2党となり、歴史的右派・左派からの伝統を持つ自由連合は大敗した。
 
イタリア政界に再編の波が訪れていたが、社会党は[[宗教]]政策などで人民党と対立して連立政権を組む事ができなかった。加えて自由連合の長老政治家達は革命を掲げる社会党を議会で孤立させる様に立ち回り、社会党は政権を獲得する事すらできなかった。党内では議席数の増加で力を取り戻した最小綱領派が組閣失敗の責任を革命主義に求め、逆に最大限綱領派は{{仮リンク|トリノ赤軍|en|Red Army of Turin}}など武装蜂起に向けた準備を始めた。1921年、最大限綱領派は社会党を離党して[[共産主義]]を掲げる[[イタリア共産党]]を結党した。1922年、続いて最小綱領派でも最右派であった[[民主社会主義]]勢力がソ連に批判された事で社会党を除名され、彼らは[[ジャコモ・マッテオッティ]]を中心に{{仮リンク|イタリア統一社会党|en|Unitary Socialist Party (Italy, 1922)}}を結党した。
 
====ファシズムとの敵対====
既に改良主義者や参戦論者のパージが続いた後であり、トゥラーティら古参政治家と中道主義者だけが残った社会党は活力を失っていった。1921年、{{仮リンク|王国代議員選挙|en|Italian general election, 1919}}で社会党は123議席に勢力を後退させた。議会はジョリッティが新旧の政党を纏めて設立した政党連合・[[国民ブロック]]が多数派を確保したが、その加盟政党の一つがムッソリーニの[[国家ファシスト党]]だった。新たな思想として[[ファシズム]]を掲げるムッソリーニは[[民族主義]]政党の[[イタリア・ナショナリスト協会]]と連合して国民ブロックの支持層を抑え、街頭でも対社会党・対共産党を掲げて[[白色テロ]]を展開した。