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'''河演'''(ハ・ヨン、 か えん、 [[1376年]](高麗王禑2年) - [[1453年]](朝鮮文宗3年))は、朝鮮初期の政治家。本貫は晋陽河氏。字は淵亮。雅号は敬または新稀翁。諡号は文孝。世宗時代の名宰相として知られる。
 
== 略歴==
1396年式年文科に合格した。1431年に[[大提]]になり、そのあと[[大司憲]]、[[刑曹判書]]、左參贊参賛などを経て、1445年に左成になって几杖を受けた。[[右議政]]・[[左議政]]を過ごし、1449年に朝鮮王朝500年の間に[[議政府]]に入って、約20年間法をよく守って「昇平守文」の宰相といわれるが、最高の評価を受けた宰相は[[黄喜]]の後に続いて[[領議政]]を務めた河演が唯一の人物である。1451年(文宗1年)に[[文宗]]王が大慈寺を重水しよう、これに反対する上訴を上げた後、官職から退き、1453年に他界した。
 
== 学問と思想 ==
=== 節義派の士大夫の思想を継承した代表的な性理学者 ===
河演は[[高麗]]の節義派の士大夫な[[鄭夢周]]の弟子であり、朝鮮の開に反対した高麗の儒臣な河自宗(杜門洞72賢の一人)の息子として節義派の士大夫の思想を継承した代表的な[[性理学]]者である。河演の性理学の理解の水準は「孝」への理解は、すでに日常生活の中で実践しており、「敬」への理解は、[[北宋]]の性理学者の義理論の段階を超えて、[[南宋]]代の[[朱熹]]の「[[敬箴]]」を収容するほど先駆的であった。つまり、河演は[[高麗]]末, 節義派の士大夫な鄭夢周の義理論を継承して修養論で、その理解の段階を進展させた。
 
== 賞と追悼 ==
* [[太宗 (朝鮮王)|太宗]]王の職務遂行絶賛
* 1419年に[[朝鮮]]開後、最初に実施した筵の最初の參贊参賛
* [[文宗 (朝鮮王)|文宗]]王の皇太子時に師匠(世子師)
* 1445年右議政在職時(70歳)、[[世宗]]大王の几杖下賜
* 1453年死去すると、[[端宗]]王は3日間朝會中断して哀悼
* 1454年文宗王の宗廟に配享
* [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]王の時に州(市)の宗川書院、陜川(郡)の新川書院祭享
* 朝鮮王朝の500年清白吏157人
 
== 聯 人物 ==
=== 直系 後孫===
*河敬(21世孫, 社會學会学者, 言論人)
*[[河承武]](21世孫, 史神者, 詩人)
 
== 参考文献 ==
*『世宗實錄実録
*『文宗實錄実録
*『端宗實錄実録
*『新增東國輿地勝覽』
*『國朝榜目』
*『海東名臣
*『私淑齋集』
*『敬齋集』