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などに使われていた。
 
学生らの抗議運動は、当初はビラまきや数人規模の小さな討論会だったが、5月21日に経済学部の地下ホールで初めて数百人規模の討論会が行われ、23日には大学職員によってシャッターを下ろされて閉じ込められるなどの妨害を受ける。その次の日は、体育会系学生が殴り込み地下ホールを占拠、討論会に参加していた学生たちは閉め出される。急きょ学生たちは校舎前に座り込み、千数百人規模で抗議集会を開始。法学部の学生二千人が合流し、錦花公園までデモ行進し、再び経済学部の校舎に戻り三号館前で抗議集会を行う。この経済学部の地下ホールから始まった討論会と抗議デモの先頭に立ったのが経済学部生の[[秋田明大]]であった。彼を議長とする日本大学[[全学共闘会議]](日大全共闘)を中心に、一般学生や[[教職員組合]]、父兄会をも巻き込み、全学的な広がりをみせた<ref>{{Cite news|title=1968年全共闘だった時代|newspaper=日大闘争年表|date=年月日|url=http://www.z930.com/nenpyou.html}}</ref>。同年9月には学生側が大衆団交を通して、[[古田重二良]]会頭を筆頭とする当局に経理の全面公開や全理事の退陣を約束させた。しかし、まもなく当局はこれを反故にして、全共闘が封鎖している校舎の解放を[[日本の警察|警察]]に要請。学内に[[警視庁]][[機動隊]]が投入される<ref name="oguma">{{Cite news|title=1968. 上 - 若者たちの叛乱とその背景|newspaper=[[新曜社]]|date=2009年7月発刊|url=|author=[[小熊英二]]}}</ref>。
 
1968年[[9月4日]]未明、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動していた機動隊員1人が、学生が校舎4階から落とした約16kgの[[コンクリート]]片を頭部に受けて[[殉職]]した。これを受けて[[警視庁公安部]]村上健[[警視正]]は[[記者会見]]で「警視庁はこれまで学生側にも言い分があると思っていたが、もうこれからは手加減しない」と憤りをあらわにした。村上の言葉通り、当初警察は日大当局の腐敗に対して立ち上がった学生らを『学生さん』と呼んで同情しており、[[大学進学率]]が10%台であった当時においてエリートである学生らを慮って『奴らの将来を考えてやれ』と力説する幹部もいたほどであったが、この事件で学生に対する怒りは警察全体に広まり、警察の新左翼学生らに対する姿勢は一転した。それまで警察は学生の検挙よりも解散を重視していたが、徹底的な取締を行うようになった<ref> {{Cite web |date=2008-09-11 |url=http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/gairyaku/sankei_saraba2.htm |title=別章【概論戦後学生運動史 |publisher=れんだいこ |accessdate=2017-06-01}}</ref>。
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