「関東大震災」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
61行目:
 
駐日フランス大使だった[[ポール・クローデル]]は罹災しながら、{{Quotation|被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間・・・、私は不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。|ポール・クローデル|『孤独な帝国 日本の1920年代―ポール・クローデル外交書簡1921‐27』 }}と当時の日本人の様子を書いている<ref>『孤独な帝国 日本の1920年代―ポール・クローデル外交書簡1921‐27』 ポール クローデル、奈良道子 翻訳</ref>。
 
[[File:Theosakamainichi-earthquakepictorialedition-1923-page30.jpg|thumb|「相州小田原の震害地へ急行の工兵隊」と「小田原十字町の惨状」(関東大震災画報 第一輯〔しゅう〕大阪毎日新聞)]]
<gallery>
HIM the Empress' personal visit.jpg|赤十字病院を慰問する貞明皇后(1923年9月15日)
HIH the Prince Regent viewing devastated Yokohama-restored.jpg|摂政宮(後の[[昭和天皇]])による横浜視察(1923年9月15日)
Yokosuka Naval Arsenal after Great Kanto earthquake of 1923.jpg|関東大震災直後の横須賀海軍工廠ガントリークレーン付近。天城が左舷(手前側)に傾き損傷している。
</gallery>
 
{{Quotation|[[吉原遊郭]]の池は見た者だけが信じる恐ろしい「[[地獄]]絵」であつた。幾十幾百の男女を泥[[釜]]で煮殺したと思へばいい。赤い布が泥水にまみれ、岸に乱れ着いてゐるのは、[[遊女]]達の死骸が多いからであつた。岸には香煙が立ち昇つてゐた。芥川氏はハンカチで鼻を抑へて立つてゐられた。|[[川端康成]]
「芥川龍之介氏と吉原」<ref name="yoshiwara"/>}}
横須賀軍港では、[[ワシントン海軍軍縮条約]]に従って[[巡洋戦艦]]から[[航空母艦]]に改装されていた[[天城型巡洋戦艦]]「[[天城 (赤城型空母)|天城]]」が<ref>「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.5</ref>、地震により[[竜骨 (船)|竜骨]]を損傷して修理不能と判定された<ref name="大内赤城73">{{Cite book|和書|author=大内健二|coauthors=|year=2014|month=02|origyear=|page=73-75|title=航空母艦「赤城」「加賀」 {{small|大艦巨砲からの変身}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2818-1|ref={{SfnRef|大内「赤城」「加賀」|2014}} }}</ref>。代艦として、解体予定の[[加賀型戦艦]]「[[加賀 (空母)|加賀]]」が空母に改装された<ref name="大内赤城73" /><ref> 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.1</ref>。「加賀」と「天城」の姉妹艦「[[赤城 (空母)|赤城]]」は[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])緒戦で活躍した。
 
震災発生時、[[連合艦隊]]は[[大連]]沖で訓練中であった<ref name="福留繁167">{{Cite book|和書|author=[[福留繁]]|authorlink=|year=1971|month=05|page=167-170|title=海軍生活四十年|publisher=時事通信社|isbn=|ref={{SfnRef|福留繁|1971}} }}</ref>。地震発生の報告を受け連合艦隊各艦は訓練を中止、救援物資を搭載して東京湾に向かった<ref name="福留繁167" />。この時<!--[[長門型戦艦]]一番艦である--><!--脱線トリビア-->戦艦「[[長門 (戦艦)|長門]]」(連合艦隊旗艦)が[[大隅海峡]]で26ノットの速力を出していたのが[[イギリス海軍]]に目撃されている<ref name="福留繁167" />。
 
== 避難 ==
135 ⟶ 148行目:
*[[山田天心]]
*[[五明楼国輔]](落語家)- 諸説あり。
<!--
 
== 関東大震災に遭遇した著名人 ==
*[[井伏鱒二]] …早稲田界隈で下宿生活を送っていたが、震災に遭遇。食料の枯渇、流言飛語、等で心身疲労を患い、7日後に[[中央本線|中央線]]経由で[[広島県|広島]]に帰郷を決断。[[大久保駅 (東京都)|大久保駅]]から[[立川駅]]までを徒歩で6時間歩き、立川から汽車で長野県経由で関東を脱出した。この経験を50年後『半世記』に著している。
*[[宇野浩二]] …被災後、上野公園に徒歩で避難する。夜間の余震、震災後2日目に起こった大火災を目撃している。
*[[川端康成]] …[[本郷区]](現・[[文京区]])の下宿で震災に遭い、野外で寝泊まりした。水と[[ビスケット]]を携帯して[[今東光]]と共に[[芥川龍之介]]も見舞って3人で被災地などを歩き廻った<ref name="atogaki4">[[川端康成]]「あとがき」(『川端康成全集第4巻 [[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』新潮社、1948年12月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=75-100}}に所収</ref><ref name="yoshiwara">川端康成「芥川龍之介氏と吉原」([[サンデー毎日]] 1929年1月13日号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp= 232-235}}に所収</ref>。何千人もの遺体を見た川端は、「最も心を刺されたのは、[[出産]]と同時に死んだ母子の死体であつた」と語っている<ref name="taika">川端康成「大火見物」(文藝春秋 1923年11月号)。{{Harvnb|随筆1|1982|pp=7-10}}に所収</ref>。
*[[西條八十]] …宇野と同じく上野公園に避難。深夜に一人の少年がハーモニカを吹き、周囲の被災民が皆、耳を澄ませていた光景を見て、「こんな安っぽいメロディで、これだけの人が楽しむ。俗曲もまたいいもんだ」と大衆のための俗歌を書いてみたいと思うようになったという。
*[[田山花袋]] …震災当日の夕刻、[[新宿駅]]と[[代々木駅]]の間にあった自宅で、息子と共に東京市の火災を目撃する。田山の自宅周辺は比較的被害が少なかった。
*[[堀辰雄]] …一家3人で[[隅田川]]に命からがら避難したが、母親が水死してしまった<ref name="hori">「数学志望から文学志望へ」({{Harvnb|アルバム堀|1984|pp=2-13}})</ref>
*[[室生犀星]] …9月2日に上野公園で妻子と再会するも、妻が出産から6日しか経っておらず疲労が激しかったため、妻子の帰郷を決断。翌日の3日に[[赤羽駅]]に向かうも、2〜3万に膨れ上がっていた避難民のため乗車も帰宅もできない状態となり、偶然その場で知り合った小田切という少女の機転で自宅に泊めてもらう事態となる。その後5日になって田端行きの上り列車に乗車できたが、車内でも消防夫たちがスクラムを組んで室生の妻子を守ってくれたという。室生はこれら被災時の数々の厚意に対し、「世に鬼はなしの言葉やうやく(ようやく)身に沁む」と記している。その後10月に犀星も[[金沢市]]に帰郷した<ref name="hori"/>。
*[[北原白秋]] …小田原の山荘で被災。書斎にいた時に地震が発生。自身は頭部に傷を負うが妻と息子共に無事だった(一時は行方不明扱いになっていた)。家屋は大きな被害を被るが倒壊は免れる(「この山にかうした恵まれた家は他に一戸あるきりである」と震災手記断片に記す)。その後しばらく隣の寺の家族と共にすぐ近くの竹林で寝泊まりする。「実に一歩山を下れば、其処はもう惨たる地獄の象であつた」「私は山に踏みとどまつてよかつたと思つた」とも語る。
*[[河竹繁俊]] …本所被服廠跡にほど近い南双葉町の自宅([[河竹黙阿弥|黙阿弥]]旧宅)で被災。避難途中に家族とはぐれ、人の波に流され火の手に追われながら南下、月島を目指すが、黒江町で迷い、狭い路地を抜けて越中島の原へ逃れた。夜9時過ぎ、原の三方が火の海となったが、雨のように降りかかる火の粉で燃え上がる草や荷物を、翌9月2日明方まで水溜りの水で消し止め戦い通した何万人かの人たちと共に助かった。はぐれた家族のうち幼い長男が死亡した。<ref>河竹繁俊「遭難記」(山本美 編『大正大震火災誌』改造社、1924年)。小川益王 監修『東京消失 関東大震災の秘録』(文藝春秋企画出版部、2006年)に再録。</ref>
*[[横光利一]] …神田の[[東京堂書店]]にいた時に震災に遭った。火の海の街中、やっと駿河台に逃げて助かった<ref name="yoko">「懊悩と模倣――陽が昇るまで」({{Harvnb|アルバム横光|1994|pp=20-35}})</ref>。横光の身を案じていた[[菊池寛]]は、「横光利一、無事であるか、無事なら出て来い」という[[旗]]を立てながら、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』の編集同人と一緒に各所を回って探したという<ref name="yoko"/>。
*[[横山エンタツ]] …巡業先で被災。鼻を骨折。
*[[桜井敏雄]] …演歌師。根岸の自宅で被災。家の下敷きになるも救助される。崩れた屋根から外を眺めると、普段は家々に隠れて見えなかった[[凌雲閣]]が八階から上が倒壊し、煙が上がっているのがはっきり見えたという。
*[[内田百間|内田百{{CP932フォント|閒}}]] …小石川雑司ヶ谷の自宅で被災。数日後に消息不明となった[[ドイツ語]]聴講生を探しに本所石原町に足を踏み入れた。この際の体験は後に『長春香』として著した他、いくつかの短編小説や随筆に記している。
*[[寺尾正・文姉妹]] …[[一卵性双生児]]の[[陸上競技選手]]。北二葉町の自宅で被災。本所被服廠跡で避難し、火災旋風に襲われるも、奇跡的に脱出し一家全員助け出すことができた。
*[[日高帝]] …19歳のときに被災し、被災者の救援などを行い県知事から表彰される。関東大震災の生き証人として知られる。
*[[村岡花子]] …[[大森町 (東京府)|大森町]]新井宿の自宅で被災。当時は、大森は田園地帯のため、半壊程度で倒壊を免れる。地震が起こる直前に大きな入道雲が見えたという。このエピソードは[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[花子とアン]]』で演出されている([[関東大震災#関東大震災に関する作品|関東大震災に関する作品]]を参照)。
*[[村岡敬三]] …村岡花子の夫。下記の村岡斎の実兄。[[銀座]]に構える職場先で被災。福音印刷が倒壊したことにより事実上倒産。社の役員の裏切りに遭う。
*[[清川虹子]] …[[東京音楽学校 (旧制)|上野音楽学校]] へ避難している。
*[[黒澤明]] …当時中学2年生<ref>参照文献 黒澤明、『蝦蟇の油』、岩波書店、1984年</ref>。
*[[古今亭志ん生 (5代目)|5代目古今亭志ん生]](当時金原亭馬きん) …本郷の自宅の長屋で猿股姿で寝転がって雑誌を読んでるときに被災し慌てて浴衣を着て家を出ようと思ったが脳裏に「地震が起きたら酒が呑めまくなる」と思い妻の財布を持って近所のなじみの酒屋に行ってあるだけの金で酒を買って呑みながら鼻歌間交じりで陽気に自宅に帰った。
*[[柳家三亀松]] …当時アマチュアの芸人で夜の寄席の出番があったために地震が起きたときは自宅で寝ていたときに被災し避難先を転々とした。
*[[橘家圓蔵 (7代目)|7代目橘家圓蔵]](当時[[桂文雀]]) …師匠[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]の自宅で修行中で師匠にもらった小遣いで浅草の宮戸座で「四谷怪談」の芝居を観劇中に被災し一晩御徒町の友人宅で避難した。その後師と共に仮住まいを持っていたが落語家としては仕事は少なくすいとん屋を営んだ。
*[[柳家蝠丸#初代|初代柳家蝠丸]] …前の日は吉原で過ごし地震が起きたときは[[浅草公園六区]]の瓢箪池にいた。その後妊娠中(五か月、のちの[[桂文治 (10代目)|10代目桂文治]])の妻と共に荷物をまとめ陸軍被服廠に避難しすぐに妻の弟の住む雑司ヶ谷に避難した。
*[[大辻司郎]] …被災し一時母が行方不明になる、上野の[[西郷隆盛]]像に「母を探しています 大辻司郎」という張り紙を張って探したらたちまち評判になって2、3日後に再会した。
*[[柳家金語楼]](当時[[柳家金三]]) …自身は巡業で東京にいなかったが家族・父三遊亭金勝、母、弟[[昔々亭桃太郎#先代(自称24代目)|昔々亭桃太郎]]が被災し急いで帰宅。
*[[国井紫香]] …堀の内のお寺でお経を唱えていたときに地震が起こり、慌てて自宅と当時出演していた駒込館に急ぎ無事であることを確認、その後生活費を稼ぐためにカレー屋を始めた。
*[[砂川捨丸・中村春代|砂川捨丸]] …8月21日から浅草六区観音劇場で「万才大会」と称して一門、芸人仲間を連れて巡業に来ていたが9月1日から10日間かけて帝京劇場でも出演予定だった。地震で慌てて逃げたが大阪出身で東京土地勘がわからなかったという。2、3日後日暮里駅から大阪に戻った、直後の高座では体験談を織り交ぜた「関東大震災数え唄」を披露している。
*[[桂小文治 (2代目)|二代目桂小文治]] …大阪出身の落語家で被災翌日には信越線で大阪に戻り新聞記者の取材を受け体験記をニットー・レコードより「関東大震災実見記」と題して[[漫談]]風の新作落語のSPレコードを残した。
*[[曾我廼家五九郎]] …被災し火の気が迫る中隅田川に飛び込んで逃げた。
*[[曾我廼家五郎]] …一門で新富座で出演中に被災和田倉門の中に逃げ込んだ。その後大阪道頓堀中座で「情火」と題した芝居を公演した。
*[[東喜代駒・駒千代|東喜代駒]] …浅草で「東喜代駒萬歳独演会」を開催直前の楽屋に被災。
*[[東武蔵]] …自身晩年に日記ノートに当時のことを「九月一日午前十一時五十八分。関東大震災、言語に言い尽くせない惨事。」記載している。この日記には自宅が全焼したことも記されている。
*[[木村若衛]] …10歳の時に横浜で被災、この時は友人と横浜の海水浴に行く予定だったが背中から倒れてきた2階建ての家に下敷きになりそうになり左腕を負傷。生家は倒壊した。けがの治療には4年かかった。
*[[コロムビア・トップ]] …生まれ間もない頃浅草橋で被災、火の粉を浴びながら母におんぶされて逃げた。大きくなって母からこの話を聞かされている。
*[[吉慶堂李彩#初代|初代吉慶堂李彩]]
*[[西塚十勝]] …11歳の時に奉公先の横浜市で被災。いつもの地震のように向かいの瀬戸物店の商品が揺れるのを見ようとした子供心が幸いし、外に出たところで奉公先の店舗が倒壊。
-->
====関東大震災犠牲者の慰霊施設====
*[[東京都慰霊堂]](旧震災記念堂)身元不明の遺骨を納め死者の霊を祀る。1948年(昭和23年)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納めその死者の霊も合祀している。
171 ⟶ 222行目:
[[File:960SL buried at Sainome tunnel.jpg|thumb|220px|[[真鶴駅]]-[[根府川駅]]間の寒ノ目山トンネルで埋没した上り第116列車の牽引機関車]]
震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは、熱海線(現在の[[東海道線]])小田原-真鶴間で、11本あるトンネルのうち7本に大規模な損傷がでる被害を生じた。地滑りや斜面崩落により坑口付近の崩落や埋没を生じたが、坑口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川-根府川間)、与瀬トンネル(中央線:相模湖-藤野間)、南無谷トンネル(現在の[[内房線]]:岩井-富浦間)<ref>[http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00037/2000/659-0027.pdf 山岳トンネルの地震被害とそのメカニズム]</ref>。
 
===紙幣の焼失===
[[日本銀行]]本店は火災を蒙ったが、銀行券は8.5%が損傷したのみに留まった{{sfn|植村峻|2015|p=136}}。ただ当時の唯一の紙幣印刷工場であった東京市大手町の[[印刷局]](当時は[[内閣]]の外局)は、証券印刷部や工場、約730台の機械設備、銀行券原版、製造中や製造完了の銀行券はほぼ焼失し、東京市王子の印刷局抄紙部も建物が全面倒壊した。9月下旬の[[大阪時事新報]]によれば、印刷局の焼け跡では奇跡的に1円、5円、10円、20円、100円の原版が無傷で発見され、[[日本銀行]]の金庫に保管された。
 
そこで当初は緊急紙幣の発行は行われなかったが、10月中旬に一部の銀行で預金の払出しが相次いだため、日本銀行は11月6日に[[大蔵大臣]]に対し、未発行の高額紙幣「甲200円券」の発行申請を行い、大阪の証券印刷会社である[[昌栄印刷|昌栄堂印刷所]]が下請工場として製造を開始した。しかし年末にはそれほど需要がないことが判明し、甲200円券は発行が中止となった(1926年に全て焼却処分された)。
 
1924年には[[朝鮮総督府]]の印刷局が東京の印刷局へ、アメリカ製の[[凹版]]速刷機や[[パンタグラフ]]を搬送し、その後に新たに発注されたアメリカ製の[[凸版]]・[[平版]]印刷機も次第に到着して、印刷局の業務は1926年3月には復旧した。
 
== 地震の混乱で発生した事件 ==
===司法・法制の動き===
301 ⟶ 360行目:
{{-}}
 
===紙幣の焼失= 歴史認識問題 ====
[[File:Tragedy at New Yoshiwara Park.jpg|thumb|150px|[[岡田紅陽]]撮影による、[[吉原遊郭|吉原]]遊女犠牲者の写真。2013年(平成25年)に韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、関東大震災時における朝鮮人虐殺の犠牲者であるとの解説とともにこの写真を公開した<ref name=gazet20130203/>が、岡田紅陽写真美術館は不明な情報とした<ref name=okadakoike201302/>。]]
[[日本銀行]]本店は火災を蒙ったが、銀行券は8.5%が損傷したのみに留まった{{sfn|植村峻|2015|p=136}}。ただ当時の唯一の紙幣印刷工場であった東京市大手町の[[印刷局]](当時は[[内閣]]の外局)は、証券印刷部や工場、約730台の機械設備、銀行券原版、製造中や製造完了の銀行券はほぼ焼失し、東京市王子の印刷局抄紙部も建物が全面倒壊した。9月下旬の[[大阪時事新報]]によれば、印刷局の焼け跡では奇跡的に1円、5円、10円、20円、100円の原版が無傷で発見され、[[日本銀行]]の金庫に保管された。
関東大震災時における朝鮮人殺害事件は、現在、[[歴史認識]]問題ともなっている。
 
[[横浜市|横浜]][[公立学校|市立]][[中学校]]の[[副読本]]の内容について、当該の副読本の出版社は2011年(平成23年)に、関東大震災の折にデマが原因で朝鮮人が殺害されたことについて、従来「自警団の中に朝鮮人を殺害する行為に走るものがいた」との内容だったのを、「軍隊や警察、自警団などは朝鮮人に対する迫害と虐殺を行った。横浜でも各地で自警団が組織され、朝鮮人や中国人が虐殺される事件が起きた」とする内容に改定した<ref>{{Cite news
そこで当初は緊急紙幣の発行は行われなかったが、10月中旬に一部の銀行で預金の払出しが相次いだため、日本銀行は11月6日に[[大蔵大臣]]に対し、未発行の高額紙幣「甲200円券」の発行申請を行い、大阪の証券印刷会社である[[昌栄印刷|昌栄堂印刷所]]が下請工場として製造を開始した。しかし年末にはそれほど需要がないことが判明し、甲200円券は発行が中止となった(1926年に全て焼却処分された)。
|url = http://www.mindan.org/search_view.php?mode=news&id=16006
|title = <関東大震災>虐殺の主体鮮明に…横浜市教委が中学生用副読本を改訂
|newspaper = 民団新聞
|publisher = Mindan
|date = 2012-06-13
|archiveurl = http://archive.is/bIl8I
|archivedate = 2013-05-03
}}</ref><ref name="mainichi20120929">{{Cite news
|url = http://mainichi.jp/select/news/20120929k0000m040093000c.html
|title = 中学校副読本:誤解招く表現 横浜市教委が処分
|publisher = [[毎日新聞]]
|date = 2012-09-29
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20121031094537/http://mainichi.jp/select/news/20120929k0000m040093000c.html
|archivedate = 2012-10-31
|accessdate = 2016-09-15
}}</ref>。市議会ではこの変更が問題となり、[[横浜市教育委員会]]は「横浜でも軍隊や警察による虐殺があったと誤解を受ける」として、当時の指導課長を2012年9月に[[戒告]][[懲戒処分|処分]]としたほか、当時の[[指導主事]]らも文書[[訓戒]]とした<ref name="mainichi20120929"/>。
 
2013年(平成25年)2月3日、韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、[[岡田紅陽]]が東京府の委嘱を受け撮影し、震災の89日後に発売した『大正大震災大火災惨状写真集』と私家版のアルバム所収の「吉原公園魔ノ池附近」と記された吉原遊女犠牲者の写真{{Refnest|group="注釈"|岡田紅陽写真美術館による<ref name=okadakoike201302>{{Cite web
1924年には[[朝鮮総督府]]の印刷局が東京の印刷局へ、アメリカ製の[[凹版]]速刷機や[[パンタグラフ]]を搬送し、その後に新たに発注されたアメリカ製の[[凸版]]・[[平版]]印刷機も次第に到着して、印刷局の業務は1926年3月には復旧した。
|url = http://okadakoike.blog.ocn.ne.jp/nikki/2013/02/post_f134.html
 
|title = 美術館日記: 岡田紅陽が撮影した関東大震災の写真について
[[File:Theosakamainichi-earthquakepictorialedition-1923-page30.jpg|thumb|「相州小田原の震害地へ急行の工兵隊」と「小田原十字町の惨状」(関東大震災画報 第一輯〔しゅう〕大阪毎日新聞)]]
|date = 2013-02-04
<!--(特筆性に乏しいためコメントアウト)== 関東大震災に遭遇した著名人 ==
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20130208022232/http://okadakoike.blog.ocn.ne.jp/nikki/2013/02/post_f134.html
*[[井伏鱒二]] …早稲田界隈で下宿生活を送っていたが、震災に遭遇。食料の枯渇、流言飛語、等で心身疲労を患い、7日後に[[中央本線|中央線]]経由で[[広島県|広島]]に帰郷を決断。[[大久保駅 (東京都)|大久保駅]]から[[立川駅]]までを徒歩で6時間歩き、立川から汽車で長野県経由で関東を脱出した。この経験を50年後『半世記』に著している。
|archivedate = 2013-02-08
*[[宇野浩二]] …被災後、上野公園に徒歩で避難する。夜間の余震、震災後2日目に起こった大火災を目撃している。
|deadlinkdate = 2015-12-26
*[[川端康成]] …[[本郷区]](現・[[文京区]])の下宿で震災に遭い、野外で寝泊まりした。水と[[ビスケット]]を携帯して[[今東光]]と共に[[芥川龍之介]]も見舞って3人で被災地などを歩き廻った<ref name="atogaki4">[[川端康成]]「あとがき」(『川端康成全集第4巻 [[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』新潮社、1948年12月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=75-100}}に所収</ref><ref name="yoshiwara">川端康成「芥川龍之介氏と吉原」([[サンデー毎日]] 1929年1月13日号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp= 232-235}}に所収</ref>。何千人もの遺体を見た川端は、「最も心を刺されたのは、[[出産]]と同時に死んだ母子の死体であつた」と語っている<ref name="taika">川端康成「大火見物」(文藝春秋 1923年11月号)。{{Harvnb|随筆1|1982|pp=7-10}}に所収</ref>。
|accessdate = 2015-12-26
*[[西條八十]] …宇野と同じく上野公園に避難。深夜に一人の少年がハーモニカを吹き、周囲の被災民が皆、耳を澄ませていた光景を見て、「こんな安っぽいメロディで、これだけの人が楽しむ。俗曲もまたいいもんだ」と大衆のための俗歌を書いてみたいと思うようになったという。
}}</ref>。}}{{Refnest|group="注釈"|同写真は[[東京大学]]社会情報研究所[[廣井脩|廣井]]研究室のウェブページに 「東京吉原遊郭内池中より水死者引上の惨状」]として掲載されている<ref>[http://www.hiroi.iii.u-tokyo.ac.jp/index-genzai_no_sigoto-tokyo_chokka_jisin-eha54.htm 東京大学社会情報研究所廣井研究室のウェブページ内「災害情報資料室」の「02関東大震災絵葉書」写真54]</ref>。}}を、関東大震災における朝鮮人虐殺時の写真として公開し、韓国の[[聯合ニュース]]で報道された<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2013/02/03/0400000000AJP20130203000500882.HTML 関東大震災朝鮮人虐殺当時の写真か 韓国研究家が公開] 2013年2月3日</ref><ref name=gazet20130203>[http://getnews.jp/archives/287724 韓国記録写真研究家が関東大震災の朝鮮人虐殺写真を訴える 別の写真を使い捏造の可能性?] [[ガジェット通信]] 2013.02.03</ref>{{Refnest|group="注釈"|明治44年(1911年)の吉原大火時の写真を捏造したものではないかとも話題になった<ref name=gazet20130203/>。}}。
*[[田山花袋]] …震災当日の夕刻、[[新宿駅]]と[[代々木駅]]の間にあった自宅で、息子と共に東京市の火災を目撃する。田山の自宅周辺は比較的被害が少なかった。
*[[堀辰雄]] …一家3人で[[隅田川]]に命からがら避難したが、母親が水死してしまった<ref name="hori">「数学志望から文学志望へ」({{Harvnb|アルバム堀|1984|pp=2-13}})</ref>
*[[室生犀星]] …9月2日に上野公園で妻子と再会するも、妻が出産から6日しか経っておらず疲労が激しかったため、妻子の帰郷を決断。翌日の3日に[[赤羽駅]]に向かうも、2〜3万に膨れ上がっていた避難民のため乗車も帰宅もできない状態となり、偶然その場で知り合った小田切という少女の機転で自宅に泊めてもらう事態となる。その後5日になって田端行きの上り列車に乗車できたが、車内でも消防夫たちがスクラムを組んで室生の妻子を守ってくれたという。室生はこれら被災時の数々の厚意に対し、「世に鬼はなしの言葉やうやく(ようやく)身に沁む」と記している。その後10月に犀星も[[金沢市]]に帰郷した<ref name="hori"/>。
*[[北原白秋]] …小田原の山荘で被災。書斎にいた時に地震が発生。自身は頭部に傷を負うが妻と息子共に無事だった(一時は行方不明扱いになっていた)。家屋は大きな被害を被るが倒壊は免れる(「この山にかうした恵まれた家は他に一戸あるきりである」と震災手記断片に記す)。その後しばらく隣の寺の家族と共にすぐ近くの竹林で寝泊まりする。「実に一歩山を下れば、其処はもう惨たる地獄の象であつた」「私は山に踏みとどまつてよかつたと思つた」とも語る。
*[[河竹繁俊]] …本所被服廠跡にほど近い南双葉町の自宅([[河竹黙阿弥|黙阿弥]]旧宅)で被災。避難途中に家族とはぐれ、人の波に流され火の手に追われながら南下、月島を目指すが、黒江町で迷い、狭い路地を抜けて越中島の原へ逃れた。夜9時過ぎ、原の三方が火の海となったが、雨のように降りかかる火の粉で燃え上がる草や荷物を、翌9月2日明方まで水溜りの水で消し止め戦い通した何万人かの人たちと共に助かった。はぐれた家族のうち幼い長男が死亡した。<ref>河竹繁俊「遭難記」(山本美 編『大正大震火災誌』改造社、1924年)。小川益王 監修『東京消失 関東大震災の秘録』(文藝春秋企画出版部、2006年)に再録。</ref>
*[[横光利一]] …神田の[[東京堂書店]]にいた時に震災に遭った。火の海の街中、やっと駿河台に逃げて助かった<ref name="yoko">「懊悩と模倣――陽が昇るまで」({{Harvnb|アルバム横光|1994|pp=20-35}})</ref>。横光の身を案じていた[[菊池寛]]は、「横光利一、無事であるか、無事なら出て来い」という[[旗]]を立てながら、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』の編集同人と一緒に各所を回って探したという<ref name="yoko"/>。
*[[横山エンタツ]] …巡業先で被災。鼻を骨折。
*[[桜井敏雄]] …演歌師。根岸の自宅で被災。家の下敷きになるも救助される。崩れた屋根から外を眺めると、普段は家々に隠れて見えなかった[[凌雲閣]]が八階から上が倒壊し、煙が上がっているのがはっきり見えたという。
*[[内田百間|内田百{{CP932フォント|閒}}]] …小石川雑司ヶ谷の自宅で被災。数日後に消息不明となった[[ドイツ語]]聴講生を探しに本所石原町に足を踏み入れた。この際の体験は後に『長春香』として著した他、いくつかの短編小説や随筆に記している。
*[[寺尾正・文姉妹]] …[[一卵性双生児]]の[[陸上競技選手]]。北二葉町の自宅で被災。本所被服廠跡で避難し、火災旋風に襲われるも、奇跡的に脱出し一家全員助け出すことができた。
*[[日高帝]] …19歳のときに被災し、被災者の救援などを行い県知事から表彰される。関東大震災の生き証人として知られる。
*[[村岡花子]] …[[大森町 (東京府)|大森町]]新井宿の自宅で被災。当時は、大森は田園地帯のため、半壊程度で倒壊を免れる。地震が起こる直前に大きな入道雲が見えたという。このエピソードは[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[花子とアン]]』で演出されている([[関東大震災#関東大震災に関する作品|関東大震災に関する作品]]を参照)。
*[[村岡敬三]] …村岡花子の夫。下記の村岡斎の実兄。[[銀座]]に構える職場先で被災。福音印刷が倒壊したことにより事実上倒産。社の役員の裏切りに遭う。
*[[清川虹子]] …[[東京音楽学校 (旧制)|上野音楽学校]] へ避難している。
*[[黒澤明]] …当時中学2年生<ref>参照文献 黒澤明、『蝦蟇の油』、岩波書店、1984年</ref>。
*[[古今亭志ん生 (5代目)|5代目古今亭志ん生]](当時金原亭馬きん) …本郷の自宅の長屋で猿股姿で寝転がって雑誌を読んでるときに被災し慌てて浴衣を着て家を出ようと思ったが脳裏に「地震が起きたら酒が呑めまくなる」と思い妻の財布を持って近所のなじみの酒屋に行ってあるだけの金で酒を買って呑みながら鼻歌間交じりで陽気に自宅に帰った。
*[[柳家三亀松]] …当時アマチュアの芸人で夜の寄席の出番があったために地震が起きたときは自宅で寝ていたときに被災し避難先を転々とした。
*[[橘家圓蔵 (7代目)|7代目橘家圓蔵]](当時[[桂文雀]]) …師匠[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]の自宅で修行中で師匠にもらった小遣いで浅草の宮戸座で「四谷怪談」の芝居を観劇中に被災し一晩御徒町の友人宅で避難した。その後師と共に仮住まいを持っていたが落語家としては仕事は少なくすいとん屋を営んだ。
*[[柳家蝠丸#初代|初代柳家蝠丸]] …前の日は吉原で過ごし地震が起きたときは[[浅草公園六区]]の瓢箪池にいた。その後妊娠中(五か月、のちの[[桂文治 (10代目)|10代目桂文治]])の妻と共に荷物をまとめ陸軍被服廠に避難しすぐに妻の弟の住む雑司ヶ谷に避難した。
*[[大辻司郎]] …被災し一時母が行方不明になる、上野の[[西郷隆盛]]像に「母を探しています 大辻司郎」という張り紙を張って探したらたちまち評判になって2、3日後に再会した。
*[[柳家金語楼]](当時[[柳家金三]]) …自身は巡業で東京にいなかったが家族・父三遊亭金勝、母、弟[[昔々亭桃太郎#先代(自称24代目)|昔々亭桃太郎]]が被災し急いで帰宅。
*[[国井紫香]] …堀の内のお寺でお経を唱えていたときに地震が起こり、慌てて自宅と当時出演していた駒込館に急ぎ無事であることを確認、その後生活費を稼ぐためにカレー屋を始めた。
*[[砂川捨丸・中村春代|砂川捨丸]] …8月21日から浅草六区観音劇場で「万才大会」と称して一門、芸人仲間を連れて巡業に来ていたが9月1日から10日間かけて帝京劇場でも出演予定だった。地震で慌てて逃げたが大阪出身で東京土地勘がわからなかったという。2、3日後日暮里駅から大阪に戻った、直後の高座では体験談を織り交ぜた「関東大震災数え唄」を披露している。
*[[桂小文治 (2代目)|二代目桂小文治]] …大阪出身の落語家で被災翌日には信越線で大阪に戻り新聞記者の取材を受け体験記をニットー・レコードより「関東大震災実見記」と題して[[漫談]]風の新作落語のSPレコードを残した。
*[[曾我廼家五九郎]] …被災し火の気が迫る中隅田川に飛び込んで逃げた。
*[[曾我廼家五郎]] …一門で新富座で出演中に被災和田倉門の中に逃げ込んだ。その後大阪道頓堀中座で「情火」と題した芝居を公演した。
*[[東喜代駒・駒千代|東喜代駒]] …浅草で「東喜代駒萬歳独演会」を開催直前の楽屋に被災。
*[[東武蔵]] …自身晩年に日記ノートに当時のことを「九月一日午前十一時五十八分。関東大震災、言語に言い尽くせない惨事。」記載している。この日記には自宅が全焼したことも記されている。
*[[木村若衛]] …10歳の時に横浜で被災、この時は友人と横浜の海水浴に行く予定だったが背中から倒れてきた2階建ての家に下敷きになりそうになり左腕を負傷。生家は倒壊した。けがの治療には4年かかった。
*[[コロムビア・トップ]] …生まれ間もない頃浅草橋で被災、火の粉を浴びながら母におんぶされて逃げた。大きくなって母からこの話を聞かされている。
*[[吉慶堂李彩#初代|初代吉慶堂李彩]]
*[[西塚十勝]] …11歳の時に奉公先の横浜市で被災。いつもの地震のように向かいの瀬戸物店の商品が揺れるのを見ようとした子供心が幸いし、外に出たところで奉公先の店舗が倒壊。
 
;文豪と自警団
359 ⟶ 404行目:
|publisher = 青空文庫
}} (「或自警団員の言葉」は単行本『侏儒の言葉』刊行時に未収録)</ref>。「或自警団員の言葉」の中の「我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、&mdash;&mdash;尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」、この部分は朝鮮人殺害や大杉栄殺害を言っている<ref name="kawabata2015">{{harvnb|川端俊英|2015|p=58}}</ref>。[[川端康成]]は芥川を見舞い、災害跡を一緒に見て歩いた<ref name="yoshiwara"/><ref>[http://www.kawabata-kinenkai.org/nenpyo.html “川端 康成 略年表”]. 公益財団法人川端康成記念会.</ref>。
 
{{Quotation|[[吉原遊郭]]の池は見た者だけが信じる恐ろしい「[[地獄]]絵」であつた。幾十幾百の男女を泥[[釜]]で煮殺したと思へばいい。赤い布が泥水にまみれ、岸に乱れ着いてゐるのは、[[遊女]]達の死骸が多いからであつた。岸には香煙が立ち昇つてゐた。芥川氏はハンカチで鼻を抑へて立つてゐられた。|[[川端康成]]
「芥川龍之介氏と吉原」<ref name="yoshiwara"/>}}-->
== 復興 ==
[[山本権兵衛]]首相を総裁とした「帝都復興審議会」を創設する事で大きな復興計画が動いた。江戸時代以来の東京市街地の大改造を行い、道路拡張や区画整理など[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備も大きく進んだ。{{Refnest|group="注釈"|公共交通機関が破壊され自動車の交通機関としての価値が認識されたことにより1923年(大正12年)に1万2765台だった自動車保有台数が震災後激増、1924年(大正13年)には2万4333台<ref>『外国車ガイドブック1991』p.196</ref>、1926年(大正15年)には4万0070台となっていた<ref>『外国車ガイドブック1980』p.44</ref>。1929年の[[世界恐慌]]など逆風が続く中、その後も漸増した。}}
375 ⟶ 419行目:
 
また復興のシンボルとして震災前は海だった所に瓦礫により埋め立てられ[[山下公園]]が作られ、1935年には復興記念横浜大博覧会でメイン会場となった。同公園内には1939年にインド商組合から市に寄贈された水飲み場([[インド水塔]])が設置されているが、これは在留[[インド]]人の事業復活のため低利融資や商館再建などに尽力した横浜市民らへのお礼として寄贈されたものである。現在この水飲み場は使用されていないが、[[イスラーム]]の[[モスク]]を思わせる屋根をした建造物が今も残されている<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFB1603O_X20C13A8000000/?df=3 せき止め湖・壁の亀裂…神奈川、関東大震災のつめ跡] 日経新聞 2013/8/31 6:30</ref>。
 
<gallery>
HIM the Empress' personal visit.jpg|赤十字病院を慰問する貞明皇后(1923年9月15日)
HIH the Prince Regent viewing devastated Yokohama-restored.jpg|摂政宮(後の[[昭和天皇]])による横浜視察(1923年9月15日)
Yokosuka Naval Arsenal after Great Kanto earthquake of 1923.jpg|関東大震災直後の横須賀海軍工廠ガントリークレーン付近。天城が左舷(手前側)に傾き損傷している。
</gallery>
 
1930年(昭和5年)には帝都復興記念章が制定され(昭和5年8月13日勅令第148号「帝都復興記念章令」第1条)、帝都復興事業に直接または伴う要務に関与した者(同第3条1号2号)に授与された(同第3条)。
399 ⟶ 437行目:
{{clear|left}}
 
=== 諸国住民からの援助 ===
9月には[[台風]]災害なども多いことから、関東地震のあった9月1日を「[[防災の日]]」と1960年(昭和35年)に定め、政府が中心となって全国で[[防災訓練]]が行われている。ただし、[[宮城県沖地震]]を経験している[[宮城県]]、[[桜島]]を擁する[[鹿児島県]]などのように、独自の防災の日を設けて、その日に防災訓練を行っている地域もある。
<!--
 
<!--(復興に対する貢献度において外債にかなわない部分をコメントアウト); 日本国外からの救援
[[File:Japan Relief Movement in US.jpg|thumb|[[シカゴ]]で行われた募金運動]]
地震の報を受けて、多くの国から日本政府に対する救援や義捐金、医療物資の提供の申し出が相次いだ<ref>「米国救護作業」pp.15「諸外国の同情」</ref>。特に[[第一次世界大戦]]時に共に戦ったアメリカの支援は圧倒的で<ref>「米国救護作業」pp.27「米国の驚くべき供給品の数量」</ref>、さらに「なお希望品を遠慮なく申出られたし」との通知があった<ref>「米国救護作業」pp.48</ref>。
443 ⟶ 481行目:
住宅の半焼・半壊(1世帯)- 4円<ref>拳骨拓史『韓国が次に騒ぎ出す「歴史問題」』PHP研究所、P109、P110</ref>
-->
横須賀軍港では、[[ワシントン海軍軍縮条約]]に従って[[巡洋戦艦]]から[[航空母艦]]に改装されていた[[天城型巡洋戦艦]]「[[天城 (赤城型空母)|天城]]」が<ref>「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.5</ref>、地震により[[竜骨 (船)|竜骨]]を損傷して修理不能と判定された<ref name="大内赤城73">{{Cite book|和書|author=大内健二|coauthors=|year=2014|month=02|origyear=|page=73-75|title=航空母艦「赤城」「加賀」 {{small|大艦巨砲からの変身}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2818-1|ref={{SfnRef|大内「赤城」「加賀」|2014}} }}</ref>。代艦として、解体予定の[[加賀型戦艦]]「[[加賀 (空母)|加賀]]」が空母に改装された<ref name="大内赤城73" /><ref> 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」pp.1</ref>。「加賀」と「天城」の姉妹艦「[[赤城 (空母)|赤城]]」は[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])緒戦で活躍した。
 
震災発生時、[[連合艦隊]]は[[大連]]沖で訓練中であった<ref name="福留繁167">{{Cite book|和書|author=[[福留繁]]|authorlink=|year=1971|month=05|page=167-170|title=海軍生活四十年|publisher=時事通信社|isbn=|ref={{SfnRef|福留繁|1971}} }}</ref>。地震発生の報告を受け連合艦隊各艦は訓練を中止、救援物資を搭載して東京湾に向かった<ref name="福留繁167" />。この時<!--[[長門型戦艦]]一番艦である--><!--脱線トリビア-->戦艦「[[長門 (戦艦)|長門]]」(連合艦隊旗艦)が[[大隅海峡]]で26ノットの速力を出していたのが[[イギリス海軍]]に目撃されている<ref name="福留繁167" />。
 
== 影響 ==
=== 諸国住民からの援助 ===
9月3日、[[ジェノバ]]において第4回[[国際連盟]]総会が開催されていたところ、総会では大震災に同情する決議や、各国が[[帝国図書館]]に書籍寄贈を行うための決議が行われ、また日本国は各国代表から個人的に集められた救援金の提供も受けた{{sfn|国際連盟協会|1923|p=22}}。
 
466 ⟶ 498行目:
こうした個人や団体からの援助活動に対し、貴族院は1923年12月11日、衆議院は12月13日に、謝意を示す決議を行った。また[[昭和5年]]には「市民の謝恩心伝える優雅なる英語が話せる良家の子女」として、5名([[芦野きみ]]・[[徳田純子]]・[[佐藤美子]]・[[松平佳子]]・[[中村桂子]]、監督者として[[松平俊子]])が選ばれ、[[遣米答礼使]]としてアメリカに派遣された<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=15230&query=&class=&d=all&page=158 婦女新聞社『婦人界三十五年』(1935.05)]</ref>。
 
== 影響 ==
=== 耐震建築と不燃化 ===
上述の通り、大震災では[[煉瓦|レンガ]]造りの建物が倒壊した。また[[鉄筋コンクリート]]造りの建物も大震災の少し前から建てられていたものの、建設中の[[内外ビルディング]]が倒壊したのをはじめ[[日本工業倶楽部]]や[[丸ノ内ビルヂング]]なども半壊するなど被害が目立った。そんな中、[[内藤多仲]]が設計し震災の3ヶ月前には完成していた[[日本興業銀行]]本店は無傷で残ったことから、一挙に耐震建築への関心が高まった。
483 ⟶ 516行目:
その一方で[[大阪市]]は東京・横浜からの移住者も加わって人口が急増し、一時的に大阪市が東京市を抜き国内で最も人口の多い市となった<ref group="注釈">大阪市は1925年(大正14年)に近隣の[[東成郡]]・[[西成郡]]全域を編入したため、単純に市の面積が東京市より広いということもあった。</ref>。[[名古屋市]]・[[京都市]]・[[神戸市]]も関東からの移住者によって人口が一時的に急増した。この状況は1932年(昭和7年)に東京市が近隣町村を編入するまで続いた。
 
=== 歴史認識問題文化 ===
9月には[[台風]]災害なども多いことから、関東地震のあった9月1日を「[[防災の日]]」と1960年(昭和35年)に定め、政府が中心となって全国で[[防災訓練]]が行われている。ただし、[[宮城県沖地震]]を経験している[[宮城県]]、[[桜島]]を擁する[[鹿児島県]]などのように、独自の防災の日を設けて、その日に防災訓練を行っている地域もある。
[[File:Tragedy at New Yoshiwara Park.jpg|thumb|150px|[[岡田紅陽]]撮影による、[[吉原遊郭|吉原]]遊女犠牲者の写真。2013年(平成25年)に韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、関東大震災時における朝鮮人虐殺の犠牲者であるとの解説とともにこの写真を公開した<ref name=gazet20130203/>が、岡田紅陽写真美術館は不明な情報とした<ref name=okadakoike201302/>。]]
関東大震災時における朝鮮人殺害事件は、現在、[[歴史認識]]問題ともなっている。
 
[[谷崎潤一郎]]など関東の文化人が関西に大勢移住して[[阪神間モダニズム]]に影響を与えたり、震災によって職を失った東京の[[天ぷら]]職人が日本各地に移住したことで江戸前天ぷらが広まったり、震災をきっかけに関東と関西で料理人の行き来が起こって関西風の[[おでん]]種が関東に伝わったり<ref>[http://www.kibun.co.jp/enter/oden/o-oden.html おでんの変遷とこれから]、紀文食品、2013年6月18日閲覧。</ref>、客に相対しての[[カウンター]]文化が関東に広まったり(それまでは関東は客は席に座ってから店が注文を取るやり方が主流だった)と、震災は文化面でも様々な影響を与えた。
[[横浜市|横浜]][[公立学校|市立]][[中学校]]の[[副読本]]の内容について、当該の副読本の出版社は2011年(平成23年)に、関東大震災の折にデマが原因で朝鮮人が殺害されたことについて、従来「自警団の中に朝鮮人を殺害する行為に走るものがいた」との内容だったのを、「軍隊や警察、自警団などは朝鮮人に対する迫害と虐殺を行った。横浜でも各地で自警団が組織され、朝鮮人や中国人が虐殺される事件が起きた」とする内容に改定した<ref>{{Cite news
|url = http://www.mindan.org/search_view.php?mode=news&id=16006
|title = <関東大震災>虐殺の主体鮮明に…横浜市教委が中学生用副読本を改訂
|newspaper = 民団新聞
|publisher = Mindan
|date = 2012-06-13
|archiveurl = http://archive.is/bIl8I
|archivedate = 2013-05-03
}}</ref><ref name="mainichi20120929">{{Cite news
|url = http://mainichi.jp/select/news/20120929k0000m040093000c.html
|title = 中学校副読本:誤解招く表現 横浜市教委が処分
|publisher = [[毎日新聞]]
|date = 2012-09-29
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20121031094537/http://mainichi.jp/select/news/20120929k0000m040093000c.html
|archivedate = 2012-10-31
|accessdate = 2016-09-15
}}</ref>。市議会ではこの変更が問題となり、[[横浜市教育委員会]]は「横浜でも軍隊や警察による虐殺があったと誤解を受ける」として、当時の指導課長を2012年9月に[[戒告]][[懲戒処分|処分]]としたほか、当時の[[指導主事]]らも文書[[訓戒]]とした<ref name="mainichi20120929"/>。
 
2013年(平成25年)2月3日、韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、[[岡田紅陽]]が東京府の委嘱を受け撮影し、震災の89日後に発売した『大正大震災大火災惨状写真集』と私家版のアルバム所収の「吉原公園魔ノ池附近」と記された吉原遊女犠牲者の写真{{Refnest|group="注釈"|岡田紅陽写真美術館による<ref name=okadakoike201302>{{Cite web
|url = http://okadakoike.blog.ocn.ne.jp/nikki/2013/02/post_f134.html
|title = 美術館日記: 岡田紅陽が撮影した関東大震災の写真について
|date = 2013-02-04
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20130208022232/http://okadakoike.blog.ocn.ne.jp/nikki/2013/02/post_f134.html
|archivedate = 2013-02-08
|deadlinkdate = 2015-12-26
|accessdate = 2015-12-26
}}</ref>。}}{{Refnest|group="注釈"|同写真は[[東京大学]]社会情報研究所[[廣井脩|廣井]]研究室のウェブページに 「東京吉原遊郭内池中より水死者引上の惨状」]として掲載されている<ref>[http://www.hiroi.iii.u-tokyo.ac.jp/index-genzai_no_sigoto-tokyo_chokka_jisin-eha54.htm 東京大学社会情報研究所廣井研究室のウェブページ内「災害情報資料室」の「02関東大震災絵葉書」写真54]</ref>。}}を、関東大震災における朝鮮人虐殺時の写真として公開し、韓国の[[聯合ニュース]]で報道された<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2013/02/03/0400000000AJP20130203000500882.HTML 関東大震災朝鮮人虐殺当時の写真か 韓国研究家が公開] 2013年2月3日</ref><ref name=gazet20130203>[http://getnews.jp/archives/287724 韓国記録写真研究家が関東大震災の朝鮮人虐殺写真を訴える 別の写真を使い捏造の可能性?] [[ガジェット通信]] 2013.02.03</ref>{{Refnest|group="注釈"|明治44年(1911年)の吉原大火時の写真を捏造したものではないかとも話題になった<ref name=gazet20130203/>。}}。
 
関東大震災に関するフィクションは以下。
; 文化
[[谷崎潤一郎]]など関東の文化人が関西に大勢移住して[[阪神間モダニズム]]に影響を与えたり、震災によって職を失った東京の[[天ぷら]]職人が日本各地に移住したことで江戸前天ぷらが広まったり、震災をきっかけに関東と関西で料理人の行き来が起こって関西風の[[おでん]]種が関東に伝わったり<ref>[http://www.kibun.co.jp/enter/oden/o-oden.html おでんの変遷とこれから]、紀文食品、2013年6月18日閲覧。</ref>、客に相対しての[[カウンター]]文化が関東に広まったり(それまでは関東は客は席に座ってから店が注文を取るやり方が主流だった)と、震災は文化面でも様々な影響を与えた。関東大震災に関するフィクションは以下。
*[[不思議な少年 (漫画)|不思議な少年]]([[山下和美]])…6巻 ムメキクと周平
*[[帝都物語]]([[荒俣宏]])…帝都・東京の滅亡を目論む魔人、[[加藤保憲]]が大地を巡る龍脈を操作して関東大震災を起こした。