「テリー伊藤」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
45行目:
18歳の時に[[日大]][[全学共闘会議|全共闘]]に参加する(彼が[[学生運動]]に参加する様子を当時のテレビカメラが捉えていた<ref>{{Cite news | url = http://www.j-cast.com/tv/2007/11/01012816.html | title = 18歳のテリー「お宝映像」学生運動の騒乱の中で・・・ | work = J-CASTテレビウォッチ | publisher = [[ジェイ・キャスト]] | date = 2007-11-01 | accessdate = 2014-03-31 }}</ref>)が、[[デモ活動|デモ]]行進中に投げられた石が顔面に当たり重傷を負い、[[東京慈恵会医科大学附属病院]]に2ヶ月間入院。この怪我が元で、左目が55度外を向く「外[[斜視]]」になる。
=== テレビ業界へ ===
大学卒業後は[[寿司屋]]や[[アパレル|アパレルメーカー]]の[[アルバイト]]を経て、[[1973年]]、[[IVSテレビ制作]]に入社。
大学卒業後は[[寿司屋]]や[[アパレル|アパレルメーカー]]の[[アルバイト]]を経て、[[1973年]]、[[IVSテレビ制作]]に入社。その2年後より放送が開始された『[[びっくり日本新記録]]』に[[アシスタントディレクター|アシスタントディレクター(AD)]]として参加、テレビマンとしてのキャリアを開始させた<ref name="nksp_150719">{{Cite news|title=テリー伊藤 日曜夜が一番嫌いだったから・・・|newspaper=[[日刊スポーツ|日刊スポーツ(ニッカン芸能)]]|date=2015-07-19|url=http://geino-smp.nikkansports.com/column/column_article.zpl?topic_id=38&id=1509561&year=2015&month=7&day=19|accessdate=2015-08-25|archiveurl=https://archive.is/20150816185611/http://geino-smp.nikkansports.com/column/column_article.zpl?topic_id=38&id=1509561&year=2015&month=7&day=19|archivedate=2015年8月16日}}《現在は[[ウェブアーカイブ|アーカイブサイト]]「[[archive.is]]」内に残存》</ref>。
 
その2年後より放送が開始された『[[びっくり日本新記録]]』に[[アシスタントディレクター|アシスタントディレクター(AD)]]として参加、テレビマンとしてのキャリアを開始させた<ref name="nksp_150719">{{Cite news|title=テリー伊藤 日曜夜が一番嫌いだったから・・・|newspaper=[[日刊スポーツ|日刊スポーツ(ニッカン芸能)]]|date=2015-07-19|url=http://geino-smp.nikkansports.com/column/column_article.zpl?topic_id=38&id=1509561&year=2015&month=7&day=19|accessdate=2015-08-25|archiveurl=https://archive.is/20150816185611/http://geino-smp.nikkansports.com/column/column_article.zpl?topic_id=38&id=1509561&year=2015&month=7&day=19|archivedate=2015年8月16日}}《現在は[[ウェブアーカイブ|アーカイブサイト]]「[[archive.is]]」内に残存》</ref>。その後、「[[シマウマ]]は素肌も白黒か?」や「[[たこ八郎]]に[[東京大学|東大生]]の血液を[[輸血]]して[[知能指数|IQ]]上昇実験」などを手掛けた<ref name="nksp_150719" />。
 
1990年代に独立し、[[テレビ東京]]『[[浅草橋ヤング洋品店]]』などを手掛ける傍ら、

[[1993年]]に出版した、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を訪問した際の体験談などを綴った『お笑い北朝鮮』を出版した<ref>{{Cite news|url=https://ddnavi.com/review/401377/a/|title=テリー伊藤が見た北朝鮮と若者たちの性事情…24年前に北朝鮮に対する心構えを提唱していた『お笑い北朝鮮』|newspaper=ダ・ヴィンチニュース|date=2017-09-20|accessdate=2018-02-04}}</ref>。
 
[[1995年]]4月にスタートした[[ニッポン放送]]『[[天才テリーの芸能ダマスカス]]』で[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を務め、その後放送時間の変更や『[[テリー伊藤のってけラジオ]]』などへの衣替えを経て、2015年3月の放送終了まで続いた。
 
[[映画監督]]の[[市川準]]に見出され、2006年公開の映画『[[あおげば尊し (2006年の映画)|あおげば尊し]]』に主演。
 
2002年4月から2006年3月まで4年間にわたり、『[[ザ!情報ツウ]]』の火曜・金曜レギュラーコメンテーターを務めていた。さらに『ザ!情報ツウ』の後継番組『[[スッキリ!!]]』にも引き続き出演。MCに昇格し、毎日出演となり、帯番組の初司会であった[[加藤浩次]]の名参謀として番組を支えていた。だが、2015年3月27日をもって、『[[スッキリ!!]]』を降板した。
 
[[映画監督]]の[[市川準]]に見出され、2006年公開の映画『[[あおげば尊し (2006年の映画)|あおげば尊し]]』に主演。
 
2007年9月22日には、『のってけラジオ』で共演していた[[落語家]]・[[林家たい平]]の独演会にゲスト出演し、落語家デビュー。高座名は「'''林家テリ平'''」。
 
2007年頃、「キャラクタービジネスで10億円稼ぐ」ことを目標にプロジェクトを立ち上げ、「'''ナニティー'''」というキャラクターを誕生させる。また、その模様を2年半に亘り追った[[ドキュメンタリー]][[映画]]『[[10億円稼ぐ]]』では自ら監督を務めた。
 
2008年8月から、『厚生労働行政の在り方に関する懇談会』にて構成員を務めている<ref>{{Cite web
68 ⟶ 72行目:
 
2008年 ‐ 2013年まで[[日本放送協会|NHK]]『[[NHK紅白歌合戦]]』に出演。
 
2007年頃、「キャラクタービジネスで10億円稼ぐ」ことを目標にプロジェクトを立ち上げ、「'''ナニティー'''」というキャラクターを誕生させる。また、その模様を2年半に亘り追った[[ドキュメンタリー]][[映画]]『[[10億円稼ぐ]]』では自ら監督を務めた。
 
== 人物 ==