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| latin=Panmunjeom / P'anmunjŏm
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'''板門店'''(パンムンジョム/はんもんてん、{{lang-ko|판문점}})は、[[朝鮮半島]]中間部に位置する[[朝鮮戦争]][[停戦]]のための[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]上にある地区である。北側の[[朝鮮人民軍]]、[[中国人民志願軍]]と南側の[[国連軍]]で[[朝鮮戦争休戦協定|停戦協定]]が[[1953年]]に調印され、同年10月以降は停戦を監視する「中立国監督委員会」と「軍事停戦委員会」が設置され、停戦協定遵守の監視を行っており、60年以上に渡る[[朝鮮半島]]の[[分断国家|南北分断]]を象徴する場所となっている。
 
==概説==
[[ファイル:Hanmonten map circa 1938.PNG|thumb|220px|right|1938年頃の板門店地図<BR>(「板門店」表示右下の橋の向こう側がJSAがある地域)]]
板門店は、韓国・[[ソウル特別市|ソウル]]から52[[キロメートル]] (km)、北朝鮮・[[平壌]]から147km、[[開城工業団地]]から8km離れた所に位置する、朝鮮戦争の停戦ラインである軍事境界線(DMZ-DeMilitarized Zone/「非武装区域」とも)上にある(北緯37°57′20″、東経126°40′40″)。韓国の行政区画上は[[京畿道]][[坡州市]]郡内面造山里に属する。
 
[[韓国軍]]を中心とした「国連軍」と[[北朝鮮]]の朝鮮人民軍が境界線を隔てて顔を合わせている。
 
板門店内は、1953年10月の設置以降、国連軍と朝鮮人民軍の停戦協定に基づく「中立国監督委員会」と「軍事停戦委員会」の本会議場が設置され、[[休戦協定|停戦協定]]遵守の監視を行っている。「軍事停戦委員会」本会議場は南側、「中立国監督委員会」は北側の施設となっており、緊急度を4段階(第一級 - 第四級)に分けた会議を開いている。
 
板門店は、[[第二次世界大戦]]後の[[冷戦]]下において、南北朝鮮と同じく分裂国家であった東西[[ベルリン]]間に置かれた「[[ベルリンの壁]]」、同じく分裂国家であった南北[[ベトナム]]を隔てた軍事境界線の「[[ベンハイ川]]」と並んで、長く「冷戦の象徴的存在」であった。そして、世界の殆どの地域で冷戦が終結し、さらに[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁が崩壊した]]のちに[[ドイツ再統一]]が成った[[1990年]]以降において、[[世界]]で唯一「'''冷戦の最前線'''」になっている。
 
南北朝鮮両国が過去何度も会談を開いてきたほか、北朝鮮支援物資も板門店を抜けて渡っていくように(現在は、都羅山に南北出入管理事務所と南北直通道路ができたことにより、板門店を経由した物資、人の往来はほとんどない)、対戦状態(休戦中)にある南北朝鮮両国の唯一の接点である。
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「中立国停戦監視委員会」は、朝鮮戦争において[[中立国|中立]]を宣言した[[スイス]]、[[スウェーデン]]、[[チェコスロバキア]](当時)、[[ポーランド]]の4カ国によって板門店に置かれることとなった。4か国それぞれから将校が派遣され任期は3年間。しかし、チェコスロバキアとポーランドは[[ソビエト連邦]]の影響下で[[ワルシャワ条約機構]]に加盟したので、実際は中立組織は機能していなかった。
 
冷戦終結と共にポーランドと[[チェコ]]([[スロバキア]]と分離)は[[東側諸国|旧東側]](ソ連圏)から離脱し、中立組織が回復するかと思われたが、両国は[[1999年]]に[[西側諸国|旧西側]]の[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟したため、再び有名無実になり、その後チェコとポーランドが抜け脱退し、現在はスイスとスウェーデンの2国のみとなっている。
 
委員会は毎週[[火曜日]]、最新情勢について北朝鮮と韓国に送付する報告書を作成している。しかし、北朝鮮は[[1995年]]以降受け取りを拒否しており、北朝鮮側のレターボックスは報告書が溜まった状態になっている。満杯になる都度に中立国停戦監視委員会が回収する。
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===周辺施設===
====帰らざる橋====
板門店の西側に[[沙川江]](サチョンガン)という河川が流れ、そこに架かる[[橋]]では朝鮮戦争停戦後に[[捕虜]]交換が行われた。北朝鮮から逃れた[[自由主義|自由主義者]]、北朝鮮の捕虜となった[[韓国軍]]兵士が[[北朝鮮]]側に渡り、その橋を渡ると二度と戻れないことから「[[帰らざる橋]]」と呼ばれた。後述の[[ポプラ事件]]の舞台となった場所もすぐ近くである。
 
====72時間橋====
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北朝鮮側の軍事境界線周辺は「[[機井洞]]」([[プロパガンダ|宣伝]]村)と呼ばれる、韓国側に北朝鮮側の「繁栄」を誇示するために設けられた高層[[アパート]]などの[[住居]]や[[工場]]が立ち並んでおり、「自由の家」からも見ることができる。しかし、これらの住居や工場はあくまで韓国側に対する宣伝のためのものであり、実際に住人はいないとされている。
 
軍事境界線近くに韓国と北朝鮮の大型の[[国旗]]掲揚塔がある。掲揚塔を設ける際に韓国と北朝鮮の両国間でその高さがあらかじめ決められていたものの、北朝鮮がこの取り決めを一方的に破り、南北双方で国旗掲揚台の高さ競争が起こり、北朝鮮側は「宣伝村」脇に当時世界一の高さとなる160[[メートル]] (m) の高さの掲揚塔を設け、現在もそのままにされている。
 
==警備==
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かつては国連軍側に、朝鮮戦争において国連軍として北朝鮮(と中国人民志願軍)と対峙した[[フィリピン軍]]、[[イギリス軍]]や[[ベルギー軍]]なども配備されていたが、現在国連軍の8割以上は韓国軍、そして残りのほとんどを韓国の同盟国であるアメリカ軍が占めている。
 
原則として南北兵士は軍事境界線を越えてはならず、「境界線を越えた者、相手兵士と会話を交わした者は刑に処せられる」と定められている。
 
2018年の第5回[[南北首脳会談]]において、JSAの非武装化に合意した(本来、区域内での武器所持は違法であるが、有名無実化していた)。地雷除去作業が10月20日までに完了し、南北双方のGP(見張り所)、武器類の撤収作業が行われる。一方で、新たに北側に韓国軍のGPが、南側に北朝鮮軍のGPが新たに設置され、南北双方が35名ずつ非武装の状態で共同警備を行う。非武装化が完了すれば、1976年のポプラ事件以来、完全分離していた南北の共同警備の復活、観光客による区域内の自由往来が可能になる<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/northkorea/2018/10/19/0300000000AJP20181019001100882.HTML 板門店・共同警備区域の非武装化へ 地雷撤去ほぼ終了]『聯合ニュース』2018年10月19日</ref>。
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DMZの[[臨津江]]周辺は[[2000年]]の韓国[[映画]]『[[JSA (映画)|JSA]]』がヒットした影響で韓国内外から強い関心が寄せられた。DMZの警備は「前進師団」こと陸軍[[第1歩兵師団 (韓国陸軍)|第1歩兵師団]]が担当しているが、この師団は非常に軍紀が厳しく、[[徴兵制度]]で配置される一般兵士達が一番行きたがらない場所でもある。
 
そこから東側の[[漣川郡|漣川]]の方に行くと「かぎ部隊」こと[[第5歩兵師団 (韓国陸軍)|第5歩兵師団]]が存在し、その東側に「白骨部隊」こと[[第3歩兵師団 (韓国陸軍)|第3歩兵師団]]がある。この部隊は朝鮮戦争時、初めて平壌に[[大韓民国の国旗|韓国旗]]を掲げた部隊として知られる。任地は冬、[[摂氏]]氷点下45度と過酷且つ孤立しており、陸軍へ入隊する若者にとっては一番避けたい、もっとも怖れられる存在として有名な精鋭部隊である。現在韓国軍の「[[国軍の日]]」は10月1日だが、この日の由来は朝鮮戦争時、第3歩兵師団麾下の第23歩兵連隊が初めて38度線を突破し北進したことを記念するためであり、第3歩兵師団は韓国陸軍でも最も厳しい軍紀とともに多数の功績を持っている。
 
さらに東に進むと「満月部隊」こと第15歩兵師団、「七星部隊」こと[[第7歩兵師団 (韓国陸軍)|第7歩兵師団]]、[[江原道 (南)|江原道]]の[[麟蹄郡|麟蹄]]まで行くと[[第1軍団 (韓国陸軍)|第1軍団]]がある。そして[[日本海]]側に出ると有名な統一展望台の「日出部隊」がある。
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=== ソ連大学生越境事件 ===
[[1984年]]11月23日、北朝鮮の板門店観光ツアーに訪れていたソ連人大学生が軍事境界線を越えて南(韓国)に入した。この大学生を追った[[朝鮮人民軍]]兵士が軍事境界線を越えたため、国連軍が攻撃し両者は衝突、韓国軍兵士1名と人民軍兵士3名が死亡した。最終的にこの大学生は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ[[亡命]]した。
 
===亡命事件===