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=== 神道と仏教 ===
両者とも穢れに対する意識はあるが、もっとも異なるのは、死そのものに対する考えで、神道では死や血を穢れとするが仏教では神道のようには死を穢れとみなさない(※下記「穢れ観念の起源」の説明と相違あり)。葬式などは、仏教では寺で行うこともあるが、神道では神域たる神社ではなく各家で行う。これは神聖なものがなんであるかの違いであり、また、清めの塩は穢れを清めているものである。{{要出典|この穢れは死者ではなく、死という事象が穢れていると感じた精神的な物である。|date=2015年3月}}したがって死においては亡くなった方だけでなく、その身内も[[忌中]]の間は神域に立ち入ることは一般には許されない。一方で、死者を神として祀る神社があったり、また墓である[[古墳]]も神域と見なされる。{{要出典|もともと神道においては、穢れは「気枯れ」すなわち「生命力の枯渇」のことであるとされ、その状態では人は罪を犯してしまいやすい状態にあると考えられており、「心の平静を保てなくするような事象」はその「気枯れ」につながると考えられたために、死が穢れたものとされた、などの説がある。|date=2015年3月}}仏教では、死は次へ転生する輪廻という世界の有り様であり、これを否定するような概念は存在しない。その現象から自ら抜け出そうとする。仏教での穢れは、[[業|潜在力]]として蓄積されることを嫌うものであり、こちらは論理的根拠に基づく。{{要出典|神道の場合は明確な教義を持たないという性格のため、その理由には諸説あって明確な統一された理由づけがあるわけではないとされ、また、それらの理由付けは後付けに過ぎないとする立場もある。|date=2015年3月}}
 
他にも{{要出典|日本古来の土着的な穢れ(何を嫌っているか)の概念は、普段の生活に垣間見ることができる。そのひとつに食事の作法があるだろう。|date=2008年4月}}また、{{要出典|このような概念は古代の[[シャーマニズム]]として世界中に土着し存在していたと考えられるが、それは世界的な様々な宗教の流布や民族の流れによってうやむやになってしまっているところも多い。|date=2008年4月}}