「メコンデルタ」の版間の差分

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{{Otheruses|地名|ドイツのバンド|メコン・デルタ (バンド)}}
{{Coord|10.009|105.824|type:landmark_region:VN|display=title}}
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|[[Imageファイル:VietnamMekongDeltamap.png|thumb|right|200px|メコンデルタ(ベトナム)の位置]]
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|[[Imageファイル:Mekong delta.jpg|thumb|right|200px|衛星写真(1996年2月)]]
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'''メコンデルタ'''({{vieVie|v=Đồng bằng sông Cửu Long|hn=垌平瀧九龍|f=h}}、 [[英語]]:''{{Lang-en|Mekong Delta''}}は、[[ベトナム]]を構成する[[ベトナムの地方行政区画|地方]]の一つであり、ベトナムの南部に位置している。他にもベト''ミエンタイ・ナム語では''{{lang|viVie|v=Miền Tây Nam Bộ}}''(ミエンタイ・ナムボ、|hn=沔西南部}})、とくに南部人からは単に''ミエンタイ''({{lang|viVie|v=Miền Tây|hn=沔西}}''(ミエンタイ、沔西)とも呼ばれる。
 
また、地理学においては、[[カンボジア]]東南部をふくめた[[メコン川]]下流の[[三角州]]を指す。
 
== 行政区分 ==
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== 地理 ==
面積はおよそ3万9000平方キロメートル。領域は[[メコン川]]とその[[支流]]、またそれを結ぶ網の目のような水路を中心として広がっている。19世紀の[[フランス領インドシナ|フランス植民地時代]]に水田面積が一気に広がり、今日では輸出米の殆どがこのデルタ地帯で生産される。作付面積の拡大のため、水路の整備や栽培技術の進歩に力が注がれている。
 
メコンデルタでも、河川が氾濫して土砂を堆積させる[[自然堤防]]が、[[カントー]]や[[ヴィンロン]]あたりまでに形成され、よく発達している。堤防上では集約的な農業が営まれている。この自然堤防と山塊にはさまれた地形として、[[チャウドック]]や[[ロンスエン]]の低地がげられ、雨季に広い範囲で洪水の被害が起こる<ref>{{Citation|和書|last=柳沢|first=雅之|contribution=大和平野、水と土」/ |editor=今井昭夫・岩井美佐紀編著『|title=現代ベトナムを知るための60章|publisher=明石書店 |date=2004年 |page=75ページ}}</ref>。
 
全般的には水路を中心とした大平野であが広がっているが、北部には[[{{仮リンク|サム山]]や[[:|vi:Bảy Núi|Núi Sam}}や{{lang仮リンク|viバイヌイ|en|Bảy Núi}}]](7つの山)られるような100〜300m程度の山がいくつか存在する。
 
=== メコン川 ===
[[ラオス]]、[[カンボジア]]を流れてきたメコン川は、カンボジアの[[プノンペン]]の南で支流のバサック川が分岐する。ベトナムには、メコン本流が[[アンザン省]]のタンチャウ県と[[ドンタップ省]]ホングー市社の境に、バサック川がアンザン省のアンフー県に流入する。ふたつの流れは50kmほど先で合流するが、さらに分岐して広大なデルタを形成する。ベトナム語では大きく分けて、バサック川に由来する西側の流れを Hậu Giang(ハウザン({{Vie|v=Hậu Giang|hn=後江}})またはsông Hậu(ソンハウ({{Vie|v=Sông Hậu|hn=瀧後}})と呼び、メコン本流に由来する東側の流れを Tiền Giang(ティエンザン({{Vie|v=Tiền Giang|hn=前江}})またはsông Tiền(ソンティエン({{Vie|v=Sông Tiền|hn=瀧前}})と呼びける。
 
== 歴史 ==
この地域は18世紀ごろまでは[[クメール]]の土地であった。[[明|明王朝]]の崩壊により亡命してきた{{仮リンク|楊彦迪|zh|楊彥迪}}(ズオン・ガン・ディック[[:vi:Dương Ngạn Địch|{{lang仮リンク|vi陳上川|zh|Dương Ngạn Địch}}]])、陳上川}}(チャン・トゥオン・スィエン、[[:vi:Trần Thượng Xuyên|{{lang|vi|Trần Thượng Xuyên}}]]などの[[ホア族|華人]]と、それを利用したベトナムの主要民族である[[キン族|キン人]]の[[南進]]により、1700年ごろまでにジャーディン(現在の[[ホーチミン市]])、[[ミトー]]、[[ビエンホア]]などの都市部が[[広南国]]の領域に加わった<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=小倉貞 |authorlink=小倉紀蔵#家族 |coauthors= |year= |title=物語ヴェトナムの歴史  一億人国家のダイナミズム |publisherseries=中公新書 |page=198 |id= |isbn=4-12-101372-7 |quote= |comment=他に黄進高の名もあるが、これは黄進(Hoàng Tiến)の誤りと思われるので記載せず}}</ref>。また、キエンザン省およびカマウ省周辺には、[[マク玖|{{Lang|ko|}}玖]](マク・クゥ、{{lang|vi|Mạc Cửu}})とその鄚天賜({{仮リンク|ク・ティエン・トゥー、[[:vi:Mạc Thiên Tứ|label={{langLang|viko|Mạc Thiên Tứ}}]]天賜|zh|鄚天賜}}(マク・ティエン・トゥー)による華人の半独立国なども興った。このため、今日でもクメール人や華人ホア族の人口が多い。
 
その後カンボジアをめぐるシャムとの戦争や、[[西山朝]]と[[広南阮氏]]復興勢力との戦いなどを経て、次第に全域がキン人の支配する領域となっていった。19世紀初頭には[[阮朝]]がほぼ現在の国境線に近い領域を版図とした。
 
19世紀中頃には[[フランス]]による植民地化が進み、1862年のサイゴン条約で東部が、1867年6月には西部もフランス領となり、フランス領インドシナのコーチシナ植民地となった。
 
[[ベトナム戦争]]においては、メコン川の細かな支流に広がるジャングルや、カンボジア国境に多い小高い山に拠点を置いた[[南ベトナム解放民族戦線]](''NLF'')と[[アメリカ軍]]との戦闘が繰り広げられた。アンザン省の[[トゥクズプ]]や、ドンタップ省の[[セオクイット]]などに戦争遺跡がのこっている。
 
== 経済・産業 ==
この地域は肥沃な農地と水利に恵まれており、[[農業]]が主要産業である。[[稲作]]と、それに伴う[[ライスペーパー]]や[[米粉麺]]などの米製品の生産、田と用水路の間の土地などを利用した果物や[[ハス]]などの栽培、[[ホテイアオイ]]などの水草を餌として利用する豚の飼育、水路を利用した[[アヒル]]や川魚の養殖も行われる。
 
電力が慢性的に不足しており、都市部でも停電がしばしば起こるために工業はあまり盛んではない。
 
== 交通・運輸 ==
鉄道は敷設されておらず、移動の中心はバスである。かつては大量輸送に耐える橋はなく、バスやトラックであっても大型の[[渡船]]に乗って渡河していたが、21世紀に入り[[カントー橋]]、[[ラックミエウ橋]]、[[ミートゥアン橋]]、コーチェン橋などが整備されて夜間の交通が安全に行われるようになった。
 
しかし今日においても、道路の不整備、コストの優越性などから船舶を使用した河川運輸や渡船の営業が広く行われており、砂利などの資材や、米などの農産物の大規模輸送のほか、生活必需品や生鮮食品を乗せた船による[[水上市場]]が残る地域も多く、地元民の生活だけでなく観光客の目も潤わせている。
 
== 観光 ==
豊かな自然、果樹園、水上市場、メコン川のクルーズなどが人気であり、[[ホーチミン市]]などから、前江(メコティエンザ川の東流域)であれば日帰り、後江(メコハウザ川の西流域)であれば1泊以上のツアーが多く組まれている。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<references />
 
== 参考文献 ==
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{{ベトナムの地方行政区画}}
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{{World-stub}}
{{Authority control}}
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:めこんてるた}}
[[Category:メコンデルタ|*]]
[[Category:三角州]]
[[Category:メコン川]]
[[Category:メコン川水系]]
[[Category:ベトナムの地方区分]]
[[Category:生物圏保護区]]
 
[[pl:Delta Mekongu]]