「日大紛争」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
壬戌 (会話 | 投稿記録)
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
壬戌 (会話 | 投稿記録)
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
22行目:
 
==全共闘の結成==
学生らの抗議運動は、当初は経済学部を中心にビラまきや数人規模の小さな討論会だった行われていた。5月21日に経済学部の地下ホールで初めて数百人規模の討論会が行われ、23日には大学職員によってシャッターを下ろされて閉じ込められるなどの妨害を受ける。24日、体育会系学生が殴り込み地下ホールを占拠、討論会に参加していた学生たちは閉め出される。急きょ学生たちは校舎前に座り込み、千数百人規模で抗議集会を開始。法学部の学生二千人が合流し、錦花公園までデモ行進し、再び経済学部の校舎に戻り三号館前で抗議集会を行う。この経済学部の地下ホールから始まった討論会と抗議デモの先頭に立ったのが経済学部生の[[秋田明大]]であった。次の日、秋田は無届けの集会とデモ行進で処分されたが、それを知った文理学部では、抗議集会を開始、右翼学生の暴行を受けながらも下高井戸までデモ行進を続け、経済学部の抗議集会に合流。経、法、文合わせて5000人の規模の総決起集会となり、各学部ごとの闘争委員会設立と、
 
・34億円使途不明金糾弾
42行目:
 
の4つのスローガンが確認される。(後に検閲制度撤廃が追加される)
その後、5月31日に7000人による大衆団交が文理学部で行われる。この時体育系(日本大学体育連合会)の学生による激しい妨害を受け、全共闘側も次第にバリケードによる抵抗を見せるようになる。
 
1968年[[9月4日]]未明、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動していた機動隊員1人が、学生が校舎4階から落とした約16kgの[[コンクリート]]片を頭部に受けて[[殉職]]した。これを受けて[[警視庁公安部]]村上健[[警視正]]は[[記者会見]]で「警視庁はこれまで学生側にも言い分があると思っていたが、もうこれからは手加減しない」と憤りをあらわにした。村上の言葉通り、当初警察は日大当局の腐敗に対して立ち上がった学生らを『学生さん』と呼んで同情しており、[[大学進学率]]が10%台であった当時においてエリートである学生らを慮って『奴らの将来を考えてやれ』と力説する幹部もいたほどであったが、この事件で学生に対する怒りは警察全体に広まり、警察の新左翼学生らに対する姿勢は一転した。それまで警察は学生の検挙よりも解散を重視していたが、徹底的な取締を行うようになった<ref> {{Cite web |date=2008-09-11 |url=http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/gairyaku/sankei_saraba2.htm |title=別章【概論戦後学生運動史 |publisher=れんだいこ |accessdate=2017-06-01}}</ref>。