「日大紛争」の版間の差分
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==全共闘の結成==
学生らの抗議運動は、当初は経済学部を中心にビラまきや数人規模の小さな討論会
・34億円使途不明金糾弾
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の4つのスローガンが確認される。(後に検閲制度撤廃が追加される)
その後、5月31日に7000人による大衆団交が文理学部で行われる。この時体育系(日本大学体育連合会)の学生による激しい妨害を受け、全共闘側も次第にバリケードによる抵抗を見せるようになる。
1968年[[9月4日]]未明、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動していた機動隊員1人が、学生が校舎4階から落とした約16kgの[[コンクリート]]片を頭部に受けて[[殉職]]した。これを受けて[[警視庁公安部]]村上健[[警視正]]は[[記者会見]]で「警視庁はこれまで学生側にも言い分があると思っていたが、もうこれからは手加減しない」と憤りをあらわにした。村上の言葉通り、当初警察は日大当局の腐敗に対して立ち上がった学生らを『学生さん』と呼んで同情しており、[[大学進学率]]が10%台であった当時においてエリートである学生らを慮って『奴らの将来を考えてやれ』と力説する幹部もいたほどであったが、この事件で学生に対する怒りは警察全体に広まり、警察の新左翼学生らに対する姿勢は一転した。それまで警察は学生の検挙よりも解散を重視していたが、徹底的な取締を行うようになった<ref> {{Cite web |date=2008-09-11 |url=http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/gairyaku/sankei_saraba2.htm |title=別章【概論戦後学生運動史 |publisher=れんだいこ |accessdate=2017-06-01}}</ref>。
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