「ルイ14世 (フランス王)」の版間の差分

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1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前にルイ14世は[[壊疽]]の悪化により死去した<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],pp.155-156.</ref>。彼は死の床に幼い王太子を呼び「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない」と訓戒したという<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]],p.193. </ref>。彼の遺体はパリ近郊の[[サン=ドニ大聖堂]]に埋葬されたが、民衆は老王の死を歓喜し、葬列に罵声を浴びせた<ref>[[#山上 1975|山上 1975]],p.265.</ref>。
 
5歳の王太子が[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]として即位する。法に従えばルイ14世の甥のオルレアン公[[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]が幼少のルイ15世の摂政を務めることになるが、オルレアン公には放蕩者の評判があり、生前のルイ14世は彼の権力を制限しようとした<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],pp.154-155.</ref>。摂政は置かずにモンテスパン侯爵夫人との庶子のメーヌ公[[ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン|ルイ・オーギュスト]]をメンバーに含む摂政会議を設置し、オルレアン公はその座長に留めよう遺言していた<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],pp.154-159.</ref>。だが、オルレアン公は高等法院に働きかけてルイ14世の遺言を破棄してしまう<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],pp.159-161.</ref>。オルレアン公はメーヌ公の王族称号(''prince du sang'')と近衛隊司令官職を奪い取って投獄して、単独の摂政となった。
 
ルイ14世と同じく幼くして即位したルイ15世も60年近い長い治世となった。ルイ15世は曽祖父の遺言に従わず再び数々の戦争を行い、1774年に彼が死去した時にはフランスの財政は破綻状態となり、そして[[アンシャン・レジーム]]の社会矛盾が表面化しつつあった。次代の[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]はこの苦境を乗り切ることができず、1789年の[[フランス革命]]を迎えることになる。