「日大紛争」の版間の差分

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壬戌 (会話 | 投稿記録)
→‎全共闘の結成: 間違って消しました。修正。
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壬戌 (会話 | 投稿記録)
→‎全共闘の結成: 警察側の主張しか書かれてないが、スト破りで何度も傷害事件を起こしている体育会学生をきちんと取締ってくれない機動隊の恣意的な対応には、全共闘からは相当不満を持たれていた。全共闘のコンクリート片投下による機動隊員の殉職を正当化はできないが、運動の過激化を招いた日大当局の暴力的な対応と、国家権力の不誠実さを無視してはいけない。
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その後、6月15日には文理学部、18日には商学部、19日には芸術学部、22日には農獣医学部、24日には文理学部三島校舎がストライキに突入した。
 
==警察の対応==
体育会や右翼団体、暴力団による全共闘への襲撃は何度も起きており、ストに参加した学生は当所はスト破りの暴力行為を機動隊が制圧してくれることを期待していた。しかし、6月にストを開始した時点で参加した全共闘の学生数名の検挙が行われる一方で、スト破りの暴力行為を見てみぬふりをする警察側の対応に不満を持つようになる。恣意的に全共闘ばかりを検挙する警察への敵対視は次第に強まって行き、こうした態度の変化もあってか、全共闘の機動隊への抵抗は過激化していく。
 
1968年[[9月4日]]未明、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動していた機動隊員1人が、学生が校舎4階から落とした約16kgの[[コンクリート]]片を頭部に受けて[[殉職]]した。これを受けて[[警視庁公安部]]村上健[[警視正]]は[[記者会見]]で「警視庁はこれまで学生側にも言い分があると思っていたが、もうこれからは手加減しない」と憤りをあらわにした。村上の言葉通り、当初警察は日大当局の腐敗に対して立ち上がった学生らを『学生さん』と呼んで同情しており、[[大学進学率]]が10%台であった当時においてエリートである学生らを慮って『奴らの将来を考えてやれ』と力説する幹部もいたほどであったが、この事件で学生に対する怒りは警察全体に広まり、警察の新左翼学生らに対する姿勢は一転した。それまで警察は学生の検挙よりも解散を重視していたが、徹底的な取締を行うようになった
<ref> {{Cite web |date=2008-09-11 |url=http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/gairyaku/sankei_saraba2.htm |title=別章【概論戦後学生運動史 |publisher=れんだいこ |accessdate=2017-06-01}}</ref>。
 
==運動の終息==
一方、日大全共闘も急進化により一般学生の広範な支持を失い、[[1969年]](昭和44年)春には紛争は収束した。日大全共闘はその後も少数の学生で活動を続けたが、[[1970年代]]初頭には自然消滅した。<ref name="nichidaitoso">{{Cite news|title=日大闘争年表 (増補完全版) 「新版・叛逆のバリケード」|newspaper=[[三一書房]]|date=2008年9月30日刊行|url=http://www.geocities.jp/nichidainoutoui_1968/nenpyou-hanbari.html}}</ref><ref name="oguma" />
 
学生・機動隊双方に多数の負傷者を出したため、その責任をとって[[永田菊四郎]]総長は辞職。直後に日大関係者による総長選挙が行われ、歯学部長[[鈴木勝 (歯学者)|鈴木勝]]が総長となった。また、[[高梨公之]]が新たに理事長となる。なお、古田は“会長”となったが、紛争収束後の[[1970年]](昭和45年)に[[日本大学病院|日大付属病院]]<!--当時は学校法人直属ではなかった-->で死去する。病院では日大全共闘を避けるため偽名を名乗っていた。<ref name="nichidaitoso" /><ref name="oguma" />