「田山花袋」の版間の差分

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12歳から漢学塾(藩儒吉田陋軒の休々塾。兄が21歳で塾頭となる)で漢詩文を学び、14歳の時には漢詩集を編んだ。また[[桂園派]]の和歌や西洋文学にも親しむ。
 
兄に従い上京し、[[1890年]](明治23年)、[[柳田國男]]を知る。翌年に[[尾崎紅葉]]のところに入門、その指示で[[江見水蔭]]の指導を受ける。『瓜畑』(古桐軒主人名義)を初めて発表し翌年から花袋と号した。当初は[[硯友社]]の影響を受けていたが{{Efn|明治26年頃は作品の発表場所を見つけられず、江見水蔭の雑誌編輯を手伝ったり、当時は鉄道職員であった野崎左文の手伝いで旅行案内を書いて生計を支えていた<ref>{{Cite book|和書|author=伊藤整|year=1995|title=日本文壇史3|publisher=講談社文芸文庫|pages=216p}}</ref>。}}、[[1896年]](明治29年)に[[国木田独歩]]、[[島崎藤村]]と知り合う。翌年、独歩、国男らと『抒情詩』を刊行し、ここに40編の詩を収めた。[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]の影響を強く受け、[[1902年]](明治35年)に『アカツキ叢書』の第5編として書き下ろした『重右衛門の最後』を発表し、これで作家としての力量を認められる。[[1899年]](明治32年)に結婚し、[[大橋乙羽]]の紹介で[[博文館]]に勤務し、校正を業とする。
 
[[1904年]](明治37年)、[[日露戦争]]が勃発すると、[[第2軍 (日本軍)#日露戦争における第2軍|第二軍]]の写真班で従軍記者をつとめた。3月29日、[[広島市]][[大手町 (広島市)|大手町]]の宿に同軍軍医部長の[[森鴎外#幅の広い文芸活動と交際|森鴎外]]を訪ねており(初対面)、8月15日に発熱して9月20日に帰郷するまでの間、鴎外と頻繁に会っていた。なお、後日「……私は殊に鴎外さんが好きで、『柵草紙』などに出る同氏の[[美学|審美学]]上の議論などは非常に愛読した。鴎外さんを愛読した結果は私もその影響を受けた。」と書いた(「私の偽らざる告白」『[[文章世界]]』1908年9月)<ref>須田喜代次「鴎外と花袋」『講座 森鴎外』第一巻、平川祐弘ほか編、新曜社、1997年、388、403-405頁。なお、相馬庸郎は「……花袋は、その存在の多くの部分を鴎外に負っている」と指摘した(「鴎外と自然主義」『国文学』1973年8月)。</ref>。その頃から[[自然主義文学]]の分野を自覚し、評論『露骨なる描写』や小説『少女病』を発表し、新しい文学の担い手として活躍することになる。[[1906年]](明治39年)博文館から『文章世界』が創刊されると編集主任となる。文章世界は当初実用文の投書雑誌を目的に発刊されたが、田山らの影響で、自然主義文学の拠点となる。