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[[江戸時代#江戸時代初期|江戸時代初期]]、[[天台宗]]の[[僧]]・[[円空]]が修業のため訪れ、様似などに足跡を記した。
[[1611年]](慶長16)の巨大地震により、[[沙流川]]流域に大きな津波が押し寄せた。平取町[[ニナツミチャシ遺跡]]の標高は61メートル、地上冠水を2メートルとすると津波浸水標高は63メートルである<ref>都司嘉宣「ミレニアム津波にどう備えるか」/ 保立道久・成田龍一監修」、北島糸子他著『津波、噴火、、、 日本列島地震の2000年史』朝日新聞出版 2013年 39ページ</ref>。
このころ日高国域ではシブチャリ地方([[静内川]]流域)の漁猟権をめぐり二つの[[アイヌ]]の集団[[メナシクル]]と[[シュムクル]](サル地方、[[沙流郡]])の間で争いが続けられてい、松前藩の調停で一度は収まった。しかし争いが再燃、武器を提供してくれるよう松前藩に申し入れたシュムク地方(惣乙名[[沙流郡オニビシ (人物)|オニビシ]]首長娘婿で[[名主|乙名]]ウタフ(ウトマサまたはウトフとも)が[[疱瘡]]で死亡したところ、和人による毒殺と誤解したアイヌが各地で蜂起する[[シャクシャインの戦い]]が[[寛文]]9年6月に勃発、日高国域内でも多数の和人が殺害されたが後に指導者であった首長惣乙名シャクシャインは暗殺され、拠点であったシブチャリのチャシも陥落する。しかし乱には和人の参加者もいた
 
江戸時代から[[明治時代]]初頭の交通について、陸上交通<ref>『北海道道路誌』[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]] 大正14年(1925年)6月10日出版</ref>は、[[渡島国]]の[[函館市|箱館]]から[[道東]]や[[千島国]]方面に至る道(浦河以西は[[国道235号]]の、浦河以東は[[国道336号]]の前身)の途上であったが、沿岸部に一部地形が険しい難所があったため、[[寛政]]11年蝦夷地取締御用を命ぜられた大河内善兵衛政寿は中村小市郎、[[最上徳内]]らに命じ様似郡の様似山道および幌泉郡の猿留山道などを開削させた(国道336号の前身)。これらの山道は[[享和]]2年12月から翌3年にかけて[[盛岡藩|南部藩]]によって修繕されている。また、[[伊能忠敬]]や[[松浦武四郎]]なども通行している。冬島~幌満間の様似山道は道程3里(12キロ)弱であったが「コトニ小休所」が設けられ、明治6年には山中に旅籠屋「原田宿」が建てられている。日高国内の河川には藩政時代から[[三県一局時代#廃使置県|廃使置県]]までの間16箇所の渡船場数があり[[渡し船]]なども運行されていた。
* [[場所請負制]]
* [[オムシャ]]
* [[シュムクル]]
* [[メナシクル]]
* [[北前船]]
* [[鰊場作業唄#北海道におけるニシン漁史|北海道におけるニシン漁史]]
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