「電算写植」の版間の差分

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写研は出版の電算化と写植化を共にリードし、電算写植システムとフォント使用料で大きな利益を上げたが、そのためにDTPに乗り遅れ、1998年には組版業界の最大手の座をモリサワに奪われることとなった。
 
なお、1970年代以降に写植機の電算化が進められる一方で、手動写植機の開発も1980年代までは続いており、その堅牢性が評価され、1990年代までは一定の需要があった。最終的には手動写植機もディスプレイ、メモリー、フロッピーディスク装置などを搭載した'''電子制御式手動写植機'''となり、電算写植機と遜色ない機能を備えるようになっている。特にモリサワが1986年に発売した手動写植機の最終形態「ROBO 15XY型」は、電算写植機と同様に組版を自動で行う上に、仮印字した写植の位置をディスプレイ上で確認して調整でき、さらに簡単な作図機能も備えるなど、写植機の内部で文字盤歯車が物理的に動作して文字盤を動かしている点を無視すればDTPに近い機能すら備えていた。また、電子制御式手動写植機の他にも、電子制御式ではない手動写植機や旧来の活版印刷機など、1990年代までは予算や規模や用途に従ってさまざまな印刷機が存在していたが、これらは「経営者が高齢で新規の投資が難しい」などの特別な理由がない限り、2000年代までには全てDTPに一本化された。
 
== 歴史 ==
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そんな中、1955年に朝日新聞社と新興製作所によって、漢字かな交じり文を電信で遠隔通信する「漢テレ」と呼ばれるシステムが試作される。これは、漢字かな交じり文を電信的にやり取りするための符号化コード、符号を紙テープ(鑽孔テープ)に記録する文字盤付きの鑽孔機「漢字テレタイプ」、紙テープを読み取とって符号を送信する送信機、遠隔地で受信して紙テープに記録する受信機、紙テープを読み取って印字する「漢字テレプリンタ」(当時はディスプレイがまだ発明されていなかったので、これが現代で言う「モニター」に相当する)などからなるものであった。
 
1959年には各新聞社の統一文字コードである[[CO-59]]が策定されたこともあり、1960年代初頭には日本の新聞各社において漢テレによる自動活字鋳植システムが導入された。これは記事の受信から活字の鋳植(鋳造&写植までを自動化し、新聞社の本社や共同通信社などから配信された記事を、日本の各地域の新聞社が受信して漢テレで紙テープ(鑽孔テープ)に記録し、その紙テープの内容を自動活字鋳植機(モノタイプ)が読み取って全自動で鋳植まで行うシステムで、従来の人間が手作業で打字しながら活字を鋳植するのに比べて圧倒的な高速化が可能となった(なお、自社取材記事の場合はテレタイプを使って自分で鑽孔しないといけない)。
 
この当時のシステムは、記事の送信・受信装置、記事を紙テープに出力する鑽孔機、紙テープに内容を記録する漢テレ、紙テープの内容を読み取って鋳植する全自動活字鋳植機で構成されていた。まだ活字であり、写植ではなかったが、これらの装置が電算写植システムにも流用されることとなる。
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「SAPTEDITOR」は後にトランジスタを用いて電子化され、より高度な組版処理機能が組み込まれたが、テープ編集機に対する組版処理機能の拡張要求は増加する一方であり、その全てをハードウェアだけで実現するのは困難だと判断された。そのため、写研はコンピュータを用いた編集組版ソフトウェアの開発に着手する。
 
1969年に発表された「SAPTON-A」システム用に開発された「SAPCOL」が日本初の一般印刷向けの組版ソフトウェアである。編集組版用ミニコンピュータとしてはPDP-8が用いられ(これは1971年に日立製作所のHITAC-10に置き換えられた)、当時のコンピュータはOSに相当するものを持たなかったため、OS相当のプログラムなども写研が自社で開発した。紙テープ編集ソフトウェア「SAPCOL」の登場で、紙テープ編集機「SAPTEDITOR」はその役目を終えた。
 
「SAPTON-A」は1970年に[[朝日印刷工業]](官報などを印刷している群馬県の印刷会社)に納入された。これが日本初の電算写植システムである。新聞社向けのシステムも同時に開発され、同年に神奈川新聞社に納入された。
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1972年の「SAPTON-Spits」システムでページ組版に対応。1976年には「サプトン時刻表組版システム」により、日本交通公社発行の時刻表が電算写植となった。
 
=== CRT写植機 ===
1970年代から1980年代にかけてはSAPTONシステムの小型化・低価格化・高機能化が進められ、写植を確認するディスプレイが搭載され、メディアは紙テープからフロッピーディスクとなった。[[DTP]]が普及する1990年代まで、写研の「SAPTON」システムは日本の小規模印刷における標準的な電算写植システムとして非常に普及した。
[[File:Linotype CRTronic 360.jpg|thumb|独ライノタイプ社のCRT写植機(海外版。モリサワより展開された日本語版は独自の打鍵装置が付く)]]
1970年代から1980年代にかけてはSAPTONシステムの小型化・低価格化・高機能化が進められた。仮印字した写植を確認するディスプレイが搭載され、メディアは紙テープからフロッピーディスクとなった。[[DTP]]が普及する1990年代まで、写研の「SAPTON」システムは日本の小規模印刷における標準的な電算写植システムとして非常に普及した。
 
1970年代後半に登場した電算写植機は、これまでの写植機のような文字盤を使用せず、コンピュータのメモリにデジタルフォントを記憶させ、コンピュータの指令に応じて所定の文字を取り出し、CRTの蛍光面上にその文字を表示させ、それを感材に露光して写植する方式であり、「CRT写植機」と呼ばれる<ref>[https://www.jagat.or.jp/past_archives/story/4364.html 電算写植の歴史-印刷100年の変革] - 公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)</ref>。文字盤を動かす「歯車」という機械的な稼働部品を無くすことで、さらなる印字の高速化が可能になった。文字の数が少ない欧米では1970年代後半の時点ですでに主流の方式で、日本でも更なる電算写植の高速化の為に求められていたが、日本語の写植では6000字を超えるデジタルフォントを扱う必要があるため、開発は難航していた。
特に小規模印刷で大きなシェアを得たSAPTONシステムだが、小規模システムはDTPへの移行が早く、1980年代から1990年代にかけてMacを使ったDTPベースのシステムに置き換えられた。
 
まず、従来のSAPTONを改良し、従来と同じ文字盤の中から1文字を選択し、それをブラウン管に投影して文字情報を電子信号化するという「アナログフォント方式」のCRT写植機「SAPTRON-G1」が1977年に開発された。8書体までの文字が利用可能となった「SAPTRON-G8N」は、1980年にサンケイ新聞大阪本社に導入され稼働を開始した。
なお、SAPTONシステムをほぼ独力で開発した写研の藤島雅宏(2014年に死去)は、「SAPCOL」によるコマンドベースの組版をDTPに拠らずに代替するものとして、晩年はXMLベースの[[XSL Formatting Objects]]の普及に携わっていた。
 
その後、写研が1976年より提携していた米オートロジック社のCRT写植機「APS-5」を和文化し、デジタル化された明朝体とゴシック体を搭載したCRT写植機の「SAPTRON-APS5」を1977年に発表。株式会社電算プロセス(現在の[[JTB印刷]])に導入され、時刻表の印刷がさらに高速化された。
 
=== レーザ写植機 ===
CRT写植機の開発のために写研が提携したオートロジック社の「APS SCAN」を利用し、図版原稿をレーザーでスキャンし、文字と画像を一括して出力する「レーザ出力機」が1981年に発表された(「レーザ写植機」は、PC用として使われている[[レーザープリンター]]と同じ原理で、紙にインクを飛ばすのではなく印画紙やフィルムに感光させて版を出力する点が違う)。また、レーザ出力機だとドットフォントでは実用に耐えない事から、これまでのようなドットのデジタルフォントではなく、レーザ出力機でも文字が崩れずに出力できる「アウトラインフォント」も開発された。[[DTP]]が普及する1990年代まで、写研の「SAPTON」システムは日本の小規模印刷における標準的な電算写植システムとして非常に普及した。また、当時は日本の写植業界2位であったモリサワも、1980年より独ライノタイプ社と提携して同様のレーザ写植機「ライノトロン・システム」を展開している。
 
この「レーザ写植機」が、電算写植機の最終形態である。レーザ写植機は、1980年代から1990年代にかけて、「写真が高精細になる」「CRTが液晶になる」などの改良が行われた。
 
「レーザ写植機」で実現された、「文字と画像の統合処理」「アウトラインフォント」などの流れの先に、DTPが登場する。レーザ写植システムで使用された「レーザ出力機」は、後にPostscriptに対応させ、初期のDTPでもMacからの出力機として流用されることとなる。
 
1985年に登場した史上初の「PostScript対応のレーザ出力機」が、モリサワが提携していたライノタイプ社の「ライノトロン・システム」で用いられた「ライノトロニック」であった。
 
=== その他の電算写植システム ===
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モリサワは「MC型手動写植機」の成功で、手動写植の時代には写研に続く組版業界第2位であり、1976年には電子制御式の手動写植機「MC-100型」、1978年にはブラウン管ディスプレイを搭載して写植の印字を史上初めて肉眼で確認できるようになった「モアビジョン」を発表するなどしていたが、電算写植への動きはかなり遅く、モリサワと独ライノタイプ社との合弁会社であるモリサワ・ライノタイプ社によって1980年に発売された「ライノトロン」がモリサワによる最初の電算写植機となった。
 
1985年、ライノタイプ社はDTPにおいてアップルやアドビなどと提携する。アドビは日本のDTP業界に進出する機会をうかがっており、またモリサワも「自社の看板商品がMacで動く」ということで、DTPに興味を持っていたことから、モリサワはライノタイプの仲介で1986年に米アドビ社と提携し、1989年にアドビよりポストスクリプト日本語フォントのライセンスを取得。同年には日本初のポストスクリプト書体となる「リュウミンL-KL」と「中ゴシックBBB」が搭載されたプリンター「LaserWriter NTX-J」がアップル社より発売され、日本におけるDTP元年となった。
 
1990年代に入ると、DTPは電算写植を急速に置き換え、モリサワは1998年には年商ベースで写研を抜いて業界トップとなった。特に、1970年代から1990年代にかけて非常に広範囲に使われた写研のフォント「ゴナ」とよく似たデジタルフォントが、モリサワの「新ゴ」として1993年に発売されたことが大きく、写研は1993年にモリサワを訴えたが2000年に敗訴した。
 
特に小規模印刷で大きなシェアを得てい写研のSAPTONシステムだが、DTPベースのシステムの方が圧倒的に安価なこともあり、小規模システムはDTPへの移行が早く、19801990年代前半から1990年代後半にかけてMacを使ったDTPベースのシステムに置き換えられた。
 
2000年代以降は大規模出版を含むほとんどの出版がAdobe IndesignベースのDTPに置き換えられ、写研を除くかつての写植メーカーがDTP向けのフォントの販売を行っているほか、Indesignでは扱うのが面倒な日本語の大規模自動組版向けのソリューション(モリサワの「[[MC-Smart]]」など)も存在している。
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鉄道のサインシステムは旧国鉄の「すみ丸ゴシック」を使うJR東海を除いて写研のフォントが使われていたが、電算写植の技術を持つオペレーターが少なくなっているため、DTPを使用せざるをえなくなり、看板が古くなって交換する2010年代以後に「写研のフォントとよく似たデジタルフォント」に次第に置き換えられている。
 
なお、日本の電算写植の創始であるSAPTONシステムをほぼ独力で開発した写研の藤島雅宏(2014年に死去)は、「SAPCOL」によるコマンドベースの組版をDTPに拠らずに代替するものとして、晩年はXMLベースの[[XSL Formatting Objects]]の普及に携わっていた。
==メリットとデメリット==
 
手動機に対する電算の利点は、以下のようなものが挙げられる。<!--これでいいんでしょうか?もっと必要なことあるような気も……-->
== 電算写植の意義 ==
*手動写植は基本的に1文字ずつ文字を打っていく必要がある<!--電子制御手動機とかどう加えますか?-->が、電算写植では文字入力と組版を分業化できる。
手動写植に対する電算写植の利点は、以下のようなものがあった。
*手動写植は基本的に文字入力と組版が一体化しており、写植機で1文字ずつ文字を打っていくことで同時に組版が行われるが、電算写植では文字入力と組版を分業化できるようになる(なお、手動写植機も1980年代には「電子制御手動写植機」となり、コマンドをフロッピーディスクに記録できるなど電算写植機に近い機能を備えるようになっていった)。
*誤植や変更があった場合、手動写植の場合は版下を1文字単位で切り貼りする必要があり、大変な労力を要していたが、電算写植では保存しておいた組版データ上で修正を行うようになり、大幅な修正も簡単になった。
*また、組版データを保存しておくことができるということは、版下と校正紙が切り離されることを意味し、校正紙を複数出力することなども可能になった。
*歯車の動作に依存する手動機では不可能なような、複雑なデザインがこなせるようになった。
 
また、初期のDTPに対する電算写植の利点は、以下のようなものがあった。
*[[写研]]のSAPCOL(サプコル)に代表される組版プログラムの開発は、日本語組版のルールに基づくページレイアウトを可能にし、“美しい”組版が発達した。
[[Microsoft Windows|Windows]]や[[Macintosh]]上で動作する[[DTP]]が電算写植に比べて安価であることから、現在では全体的な傾向としてはDTPが電算写植に取って代わりつつある。しかし*DTPでは希望する書体が使えない、和文の組版ルールへの対応が甘い、あるいは数式と和文の混在したページを満足に組めない<!--、対話型の組版では大量のページ物を組む効率が悪くコードを使った自動組みでは電算写植に一日の長がある、-->などの理由から、現在も相当の需要・使用状況がある。
 
「早く組める」「大幅に直せる」ということにつながる利点は、「あとで直せるから」という意識につながり、原稿を組版工程に回す前段階で綿密に行われるべき[[編集者]]の原稿整理や校正、レイアウトなどがおろそかになった([[誤植]]・[[誤報]]につながる)という指摘も多い。暗算による字数計算に基づく紙面レイアウトなどの、活字時代には編集者の基本とされた技能が、組版技術の進化と反比例するように衰退したとも言われる。それはDTP時代になると、かつてならばあり得なかったであろう「仮組み」(とりあえず組んでみて、レイアウトを調節する)などが行われることにつながる。
 
なお、当初は写真植字の機構を電算機で管理・制御していた「電算写植」であるが、末期には[[PostScript]]への対応や[[WYSIWYG]]を限定的ながら実現したシステムも登場してきており、「DTP」との境目かなり曖昧になっ全く断絶しきてもるわけではなく、むしろ電算写植機の開発から続く印刷の歴史の流れの先にDTPがある。
[[Microsoft Windows|Windows]]や[[Macintosh]]上で動作する[[DTP]]が電算写植に比べて安価であることから、現在では全体的な傾向としてはDTPが電算写植に取って代わりつつある。しかしDTPでは希望する書体が使えない、和文の組版ルールへの対応が甘い、あるいは数式と和文の混在したページを満足に組めない<!--、対話型の組版では大量のページ物を組む効率が悪くコードを使った自動組みでは電算写植に一日の長がある、-->などの理由から、現在も相当の需要・使用状況がある。
 
なお、当初は写真植字の機構を電算機で管理・制御していた「電算写植」であるが、[[PostScript]]への対応や[[WYSIWYG]]を実現したシステムも登場してきており、「DTP」との境目はかなり曖昧になってきてもいる。
 
==関連用語==
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*[[Adobe InDesign]]
*[[Computer Typesetting System]](CTS)
 
== 出典 ==
<references />
 
{{タイポグラフィ用語}}