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OWIに参加した作家、プロデューサー、俳優のなかには[[ソ連]]や[[共産主義]]を賛美するものもおり、[[アメリカ共産党]]の党員もいた<ref>Haynes and Klehr, p. 197-198</ref>。
 
OWI太平洋作戦部長で中国学者の[[オーウェン・ラティモア]]は、のち副大統領[[ヘンリー・A・ウォレス]]に同行して1944年に中国とモンゴルを訪問するなどしたが、戦後になって[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|ソ連軍参謀本部情報局]]を離脱したアレクサンダー・バーミン将軍が、ラティモアがソ連の工作員である可能性を指摘した<ref>FBI Report, "Owen Lattimore, Internal Security - R, Espionage - R," September 8, 1949 ([http://foia.fbi.gov/owenlatt/owenlatt1a.pdf FBI File: Owen Lattimore, Part 1A]), p. 2 (PDF p. 7): Six years prior to the Barmine revelations in his 1948 interview, the FBI had already compiled a thick security dossier on Lattimore at the onset of World War II, recommending that he be put under "Custodial Detention in case of National Emergency."</ref><ref>[http://www.time.com/time/printout/0,8816,822192,00.html''Absent-Minded Professor?''], Time Magazine, Monday, Mar. 10, 1952</ref><ref>''Testimony of Alexander Barmine'', July 31, 1951, U. S. Congress, Senate Committee on the Judiciary, Internal Security Subcommittee, Institute of Pacific Relations, Hearings, 82nd Congress, First Session (Washington: Government Printing Office, 1951), Part 1, pp. 199-200</ref>。[[赤狩り]]の中心人物であった[[ジョセフ・マッカーシー]]はラティモアをアメリカ政府内の親共産主義者として告発したが、本人の反論のほか、[[ディーン・アチソン|アチソン国務長官]]やラティモアと同じく中国学の権威であった[[ジョン・キング・フェアバンク|フェアバンク]]らがラティモアを擁護した。結局ラティモアへの嫌疑は却下されたが、彼はこれを機に在籍していた[[ジョン・ホプキンス大学]]での立場を失い、イギリス、後にフランスへ去った。<ref>黒川修司『赤狩り時代の米国大学』中央公論社、1994、166-172p</ref>
 
このほか、フローラ・ウォブスキンも[[ベノナ]]文書公開によってソ連のスパイであったことが明らかになっている<ref>Haynes and Klehr, p. 198-201</ref>
 
==脚注==