「上杉治憲」の版間の差分
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加えて農村の疲弊や、宝暦3年の[[寛永寺]]普請による出費、宝暦5年([[1755年]])の洪水による被害が藩財政を直撃した。名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。
新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい[[竹俣当綱]]や財政に明るい[[莅戸善政]]を重用し、先代任命の[[家老]]らと厳しく対立した。また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果明和6年(1769年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた<ref>
[[天明]]年間には[[天明の大飢饉]]で[[東北地方]]を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父・[[上杉綱憲|綱憲]](4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を[[藩校]]・[[興譲館 (米沢藩)|興譲館]](現[[山形県立米沢興譲館高等学校]])として[[細井平洲]]・[[神保綱忠]]によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。
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== 参考文献 ==
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* {{Citation|和書|editor=横山昭男|title=上杉鷹山のすべて|publisher=新人物往来社|year=1989}}
* {{Cite book|和書|author=安彦孝次郎|title=上杉鷹山の人間と生涯|publisher=サイエンティスト社|origyear=1942|year=1994|edition=三訂版}}
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