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|所在地=[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[新橋 (東京都港区)|新橋]]五丁目1番2号
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'''平和相互銀行'''(へいわそうごぎんこう)は、かつて存在した[[相互銀行]]である。[[1986年]][[10月1日]][[住友銀行]](現:[[三井住友銀行]])に吸収合併され消滅した。
 
== 概歴 ==
=== 創業と乱脈経営 ===
東京[[木挽町]]で[[鉄屑]]屋「小宮山商店」を営む小宮山英蔵が、それで得た財を元手に、殖産会社の東北林業を買収して、[[1949年]][[6月1日]]に日本殖産を設立。さらに大日殖産を吸収合併し、社名を平和貯蓄殖産無尽に変更の上で日掛け金融を始める。[[1951年]]の[[相互銀行法]](法律第199号)の施行によって[[相互銀行]]に転換、平和相互銀行となる<ref name="bank508" />。
 
英蔵は参議院議員であった[[小宮山常吉]]の長男で、次弟に平和相銀社長を引き継いだ小宮山精一、三弟に[[郵政大臣]]を務めた[[小宮山重四郎]]、姪に衆議院議員[[小宮山泰子]]、孫にミュージシャンの[[小宮山雄飛]]がいる。
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[[1985年]]6月中旬、[[山口光秀]]大蔵省事務次官と[[磯田一郎]]住銀頭取は、共にゴルフに興じ、その場で磯田が平和相銀の買収の意思表示をし、表沙汰になると話が壊れるので、以後「住銀は関知しない」で通すことで両者は合意したとされる。この直後から磯田は具体的な合併工作を指示した<ref>『銀行の墓碑銘』p.486</ref>。同年8月、[[大蔵省]]の[[吉田正輝]][[銀行局]]長(奇しくも後に乱脈経営で破綻する[[兵庫銀行]]最後の頭取)の陣頭指揮のもとに、10人の検査官を動員、異例ともいえる5ヶ月間にわたる長期検査を平和相銀に実施した。この検査で、融資額半分を占める約5千億円が回収不能の[[不良債権]]であると判明する。
 
検査終了後の[[1986年]]1月、検査結果がマスコミにリークされたことや<ref name="bank487">『銀行の墓碑銘』p.487</ref>、内紛に基づく訴訟合戦が加熱報道を呼んだこともあり、不安に感じた預金者は預金の引き出しに走った。このため、1985年10月から1986年2月にかけては2370億円が流出し、預金残高が1兆円を割り込む事態となった<ref>『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』p.108</ref>。同年2月6日、伊坂ら実権派の四人組は辞任。翌日、大蔵省OBだった田代一正会長が社長に就任し、平和相銀は自主再建断念を表明。同年10月1日住友銀行に吸収合併された<ref name="bank487" /><ref group="注釈">吸収後の店番は「平和相銀時代の番号+800」となり、従来からの住友店とは隔てられた800・900番台に区別関東地方の従前からの住友店は200・300番台が中心であった。</ref>。合併に先立ち、同年7月、東京地検特捜部は平和相銀事件の捜査に着手。[[神戸市]]内の山林売買融資について[[特別背任]]にあたるとして、同7月6日、伊坂ら実権派4人を[[逮捕]]、同月26日に[[起訴]]した。
 
=== その後 ===
合併によって「住友残酷物語」と呼ばれる旧平和相銀行員の[[粛清|大粛清]]が行われ、合併から半年でほぼ全行員がいなくなったとの話が、一部でまことしやかに囁かれたが、実際には合併から半年を経過した後でも、旧平和相銀出身者は多数在籍している<ref group="注釈">元[[産経新聞]]記者の近藤弘は著書『住友銀行-7人の頭取』の中で、このたびたび語られる「住友残酷物語」に関しては東京系都銀が流布した虚構であるとしている。同じように、「住友残酷物語」によって"行員が大粛清された"とされる旧[[河内銀行]](1965年4月合併)の吸収合併を検証し、「合併当時の河内銀行行員は301人、1988年時点で約半数の165人が在籍し、現職含め支店長経験者は35人いる(平均年間[[離職率]]は過去23年間で2%弱となる)」と論じている。なお、本書の初版時期である1988年の時点(合併から約3年後)では旧平相銀行員の減少率について触れていないが、住銀店舗の支店長に抜擢された2人の旧平和相銀行員の活躍ぶりを取材している</ref><ref group="注釈">[[フリージャーナリスト]][[田澤拓也]]の著書『住友銀行人事第2部 旧平和相互銀行員25人の証言と軌跡』によれば、住友銀行に在籍している旧平和相銀行員は、合併時3300名、本書執筆時で2100名と明記している。退職者のうち、8割近くが女性行員との事である。</ref>。
 
合併後、住銀企画部長に就任した[[西川善文]]は、各地の旧平和相銀の店舗を実際に足を運んで見て回った。その折に、[[住都公団]](現:[[UR都市機構]])の団地の[[商店街]]にある[[郵便局]]程度の規模の店舗、新興住宅地の丘の上にあって営業時間が10時から2時までの店舗、駅前のビルに立地するものの地下に[[ピンク映画]]専門の映画館のある店舗を視察。ひとつ、ひとつの店舗規模が小さく、使い物にならない店舗が多いと判定し、合併から1年経った[[1987年]]12月段階には、継承した103店を62の支店または特別出張所までに絞り込んだ<ref>『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』p.110</ref>。
 
また平和相銀は夜間や日曜営業が特色であったが、これは顧客にとっては便利この上ないが、銀行にとっては非効率そのものであり、今日のような機械化が進んでいない時代で、ただでさえ人手がかかっていた支店業務が、営業時間が長ければ行員は必然的に二交代制になるので、他の銀行より遥かに人数が必要になり、これを続ければ住銀の収益を圧迫する懸念が出てきた。そこで7時までの営業をやめよう西川が大蔵省に折衝に出向くと、「住友銀行は7時営業を続ける前提で平和相銀を買うのではないか」と銀行課長はうんと言ってくれなかった。結局、その後も折衝を重ね、平和相銀の名前が残っているうちは仕方がないが、正式合併後は勘弁してもらうということで了承してもらった<ref>『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』p.111</ref>。
 
住銀の平和相銀合併における目的の第一は、首都圏店舗網の拡充にあったが<ref>『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』p.109</ref>、合併から数年後には大蔵省の店舗行政は緩和していき、新規出店ははるかにやりやすくなった。こうした情況の変化を受け、西川は無理をしてまで平和相銀は買わなくてもよかったかもしれない。また、払うべき代償はあまりにも大きかったと顧みている。代償とは平和相銀株取得のためイトマンファイナンスの力を頼ったことであり、平和相銀問題があったから[[イトマン事件]]もあったとの見解を自著で披瀝している<ref>『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』p.113</ref>。
 
平和相銀本店は現在の三井住友銀行西新橋ビルにあたり、平和相銀消滅から12年後の[[1998年]]まで第二東京営業部として存続していた。ビルはが、[[2014年]]に[[銀泉]]が取得したうえで再開発のため解体された。
 
== 沿革 ==
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*[[1950年]]3月 - 大日殖産株式会社を吸収して、平和貯蓄殖産無尽株式会社へ商号変更。
*[[1951年]]10月20日 - 株式会社平和相互銀行に商号変更。
*[[1954年]]11月 - 東京住宅無尽株式会社を吸収
*[[1974年]]4月1日 - 福徳信用組合を合併。
*[[1986年]]10月1日 - 住友銀行に吸収合併。