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同年[[7月 (旧暦)|7月]]、[[徳川秀忠]]の娘である[[千姫]]が秀吉の遺言に基づき子の[[豊臣秀頼]]に輿入した。
 
慶長10年([[1605年]])[[正月]]に家康が、つづいて[[2月 (旧暦)|2月]]に秀忠が[[伊達政宗]]ら[[奥羽]]の[[大名]]を加え10万とも16万ともいわれる大軍を率いて[[上洛]]した。同年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り、自らの官位であった[[右大臣]]位を秀頼に譲る。将軍就任時の秀忠の官位が[[内大臣]]であったのに対し、秀頼はこうして右大臣になったが、秀忠の将軍職継承は[[天下]]にはもはや豊臣家ではなく徳川家が君臨することを示すものである。先の家康の将軍任官時の序列はまだ秀頼が上であって、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており<ref>[[毛利輝元]]書状(『萩藩閥閲録』)、『[[義演]]准后日記』慶長七年十二月晦日条、『鹿苑日録』慶長八年四月二十日条(当時の[[僧録]]は[[西笑承兌]])など。</ref>、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していたが<ref group="注釈">関ヶ原の戦いの直後に[[九条兼孝]]が[[関白]]に任官したことにより、秀頼が関白就任への可能性を絶たれたとする見解([[今谷明]]『武家と天皇』)もある。慶長10年には兼孝の次に摂関家の[[近衛信尹]]が関白に任じられている。</ref>、既に家康、そして徳川政権が時を追うごとに優位になっていくことを止めることはできなかった。<ref name="watanabeedobakufu">{{Harvnb|渡邊大門『[[#大門|大坂落城]]』pp332012|pp=33-65}}</ref>。
 
[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]、秀頼が臣下の礼を取るように、[[高台院]]を通じて秀頼生母の[[淀殿]]に要求した。淀殿は会見を拒否したが、家康は[[松平忠輝]]を大坂に遣わし融和に努めている<ref name="watanabeedobakufu"/>。
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二条城の会見後の慶長16年(1611年)に[[浅野長政]]・[[堀尾吉晴]]・加藤清正が、慶長18年([[1613年]])に[[池田輝政]]・浅野幸長、慶長19年(1614年)に[[前田利長]]が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まり、幕府に無断で[[朝廷]]から[[官位]]を賜ったり<ref group="注釈">慶長11年に、家康は朝廷より武家官位推挙権を獲得していた。豊臣家は依然として徳川幕府体制の外にあったため、幕府の制定した法令に縛られないというのが豊臣側の論理である。</ref>、[[兵糧]]や[[浪人]]を集めだし、更には[[前田氏|前田家]]と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。
 
豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、[[攻城兵器]]として[[国友]]鍛冶に[[大鉄砲]]・[[大筒]]の製作を命じ、他にも[[石火矢]]の[[鋳造]]、[[イギリス]]や[[オランダ]]に対し[[青銅砲|大砲]]・[[焔硝]]・[[鉛]](砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教陣営との接触は両軍共に存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる。{{refnest|group="注釈"|また、家康は[[林羅山]]に[[湯王|湯]][[武王 (周)|武]][[放伐]]論の是非を問うなど、主家である豊臣家を討つことの倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩したといわれているが<ref name="kasayahokoji">笠谷和比古『[[#{{Harvnb|笠谷|関ヶ原合戦と大坂の陣]]』pp2042007|pp=204-215}}</ref>、この時期の林羅山は家康に対して大きな発言権はないとする近年研究もある<ref name="watanabehokoji">渡邊大門『[[#{{Harvnb|渡邊|大坂落城]]』p682012|pp=68-82}}</ref>}}。
 
こうしたなかで発生した方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる(方広寺鐘銘事件の詳細は[[#方広寺鐘銘事件|後述]])。慶長19年([[1614年]])[[8月 (旧暦)|8月]]、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために[[片桐且元]]を駿府へ派遣するが、家康は且元と面会していない。しばらくして[[大野治長]]の母の[[大蔵卿局]]が駿府へ派遣されたが、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]、家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、[[以心崇伝]]と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという。同日、家康は今度は[[西国]]の大名50名から誓詞をとっている。
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豊臣秀頼・淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として[[畿内]]を中心に[[寺社]]の修復・造営を行っている。主なもので[[東寺]]金堂・[[延暦寺]]横川中堂・[[熱田神宮]]・[[石清水八幡宮]]・[[北野天満宮]]・[[鞍馬寺]]毘沙門堂など、85件にものぼった。慶長13年([[1608年]])には、家康が'''[[方広寺]]大仏殿'''(秀吉が建立し慶長元年([[1596年]])に倒壊)の再建を勧めている。
 
これら多くの造営で秀吉が[[大坂城]]に遺した金銀は底をつくのではないかという憶測も流れたが、実際には全く困窮していなかった。大坂の役で多くの戦費を消費したにもかかわらず、大坂城落城後、約2万8千枚の[[金貨|金]](約28万[[両]])と約2万4千枚の[[銀貨|銀]](約24万両)が幕府に没収されている<ref>『駿府記』</ref><ref>渡邊大門『[[#{{Sfn|渡邊|大坂落城]]』p178</ref>2012|p=178}}
 
=== 方広寺鐘銘事件 ===
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::(これも豊臣を隠し題にしたものである。この例も昔にあったものである。)
}}
[[宮本義己]]は「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない<ref>{{Cite journal|和書|author=宮本義己|title=徳川家康公の再評価」(『|journal=大日光|issue=64号|year=1992年)}}</ref>」としており、この考え方は以下に述べるように笠谷和比古や渡邊大門に影響を与えている。
この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、批判的見解を示したものの、呪詛までは言及しなかった<ref name="kasayahokoji"/>。しかし家康の追及は終わらなかった。たとえ、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、当時の[[諱]]に関する常識から鑑みれば<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく<ref name="kasayahokoji"/>、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった<ref name="kasayahokoji"/>。姓が用いられた豊臣と、諱が用いられた家康の扱いの差についての指摘もある<ref name="kasayahokoji"/>。家康のこの件に対する追求は執拗であったが<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>、崇伝の問題化への関与も当時の史料からみえる状況からはうかがえない<ref name="kasayahokoji"/><ref name="watanabehokoji"/>。しかし、崇伝も取り調べには加わっており、東福寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている<ref name="watanabehokoji"/>。清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されたまま1621年に没している<ref>渡邊大門『[[#{{Sfn|渡邊|大坂落城]]』p178、p187</ref>2012|pp=178,187}}。なお鐘と銘文は、方広寺にそのまま残され、現代に至っている。
 
== 大坂冬の陣 ==
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そして、23日に家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。
 
[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]、[[摂関家]]の当主らが、家康の元に訪れて朔日の祝いを述べた。ところが現任の関白である[[鷹司信尚]]のみは、延期された方広寺の大仏の開眼供養に出席しようとしていたことを家康から問題視されて会見を断られてしまう。信尚はそのまま謹慎を余儀なくされ、その後家康が行った[[禁中並公家諸法度]]の草案に対する公家たちへの意見聴取の対象にもされることがないまま、翌年閏6月に関白の辞表の提出をしている<ref>{{Sfn|橋本政宣 「禁中并公家中諸法度の性格」『近世公家社会の研究』 吉川弘文館、|2002年、ISBN 4642033785 P551|pp=551-555</ref>}}
 
幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こった。ただし福島正則や[[黒田長政]]らは江戸城に留め置きとされた。福島正則や黒田長政は関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力したが、これはあくまで不仲であった[[石田三成]]の討伐が目的だった為、豊臣家との戦となれば敵方に寝返る可能性があった。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣している。
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16日から全軍より一斉砲撃が始められる<ref>大日本史料 12編16冊908頁</ref>。[[北]]方の備前島だけで大筒100門と石火矢が[[本丸]]北側の奥御殿に、南方の[[天王寺]]口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿御対面所(俗称千畳敷)に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。
この砲撃では国友製3[[貫目]]の大砲、芝辻理石衛門により[[鍛造]]で造られた鉄製の大砲が使われた。芝辻理石衛門製の大砲は[[靖国神社]]の遊就館に奉納されている。
6月頃にイギリスより購入した[[カルバリン砲]]4門、[[セーカー砲]]1門や7日前に[[兵庫港|兵庫]]に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門([[半カノン砲]]に比例)<ref>[[{{Cite book|和書|author=宇田川武久]] 『|authorlink=宇田川武久|title=真説鉄砲伝来』(|publisher=平凡社|year=2006年)}}</ref>も含まれていると思われる。
 
豊臣方は近づいてくる徳川方に火縄銃で対抗。竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと火縄銃の効果は激減する<ref>大日本史料 12編16冊754頁</ref>。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え、番所の武士に声をかけ、激励していたといわれる(『当代記』)<ref>{{Cite journal|和書|author=田端泰子|title=「大阪冬・夏の陣」に収斂する淀殿の役割」(『|journal=京都橘女子大学女性歴史文化研究所紀要|isuue=11号|year=2003年)}}</ref>。
大砲も使い、塙直之が[[蜂須賀至鎮]]に夜襲をしかけ戦果をあげた(17日)。
 
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豊臣側は兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や櫓・[[陣屋]]などに撃ち込まれた砲弾で将兵は疲れが溜まる。本丸への砲撃が淀殿の侍女8人に命中、8人共死んだ。淀殿は「大坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、あまりに凄惨な光景を見て和議に応ずる事を決める(16日)。
 
[[朝廷]]から[[後陽成天皇|後陽成上皇]]の命により、17日に[[武家伝奏]]の[[広橋兼勝]]と[[三条西実条]]を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、朝廷の介入を許さず、あくまで徳川主導で交渉を進めた<ref group="注釈">{{Efn|この時、家康はかねてから公家たちに求めていた「古今礼義式法之相違」に関する意見の提出を両名に督促しており、豊臣氏との合戦と並行して翌年制定される[[禁中並公家諸法度]]の制定に向けて意見の集約を進めていたことが分かる([[{{Sfn|橋本政宣]] 「禁中并公家中諸法度の性格」『近世公家社会の研究』 吉川弘文館、|2002年、ISBN 4642033785 P541|pp=541-543)543}}</ref>}}
 
交渉は18日より徳川方の[[京極忠高]]の陣において、家康側近の本多正純、[[阿茶局]]と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である[[常高院]]との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。
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[[城割]](城の破却)は古来行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すだけ、城郭の一部の破壊については外周の外堀だけを埋めるという儀礼的なものだった。しかし徳川側は松平忠明、本多忠政、[[本多康紀]]を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、[[成瀬正成]]、[[安藤直次]]の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく、周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。この際、門や櫓も徹底的に破壊されている。
 
幕府方は「惣」の文字を「すべて」の意味に曲解し、強硬的に内堀まで埋め立てる卑劣な手段を使ったとされてきたが、この話は後代に記された書物にしか記載されておらず、当時の第一次史料の中には確認できない。さらに、この工事に関係した伊達政宗・細川忠利ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事を巡り大坂方との間で揉め事が発生しているような形跡が見つからず「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであった」といえる<ref>{{Sfn|笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(2007年、吉川弘文館)239|2007|pp=239-241頁</ref>}}
 
== 大坂夏の陣 ==
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本丸、掘り返した堀以外の堀を埋められて裸同然となっていた大坂城に、殺到する徳川方を防ぐ術はもはやなく、真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入した。遂には秀頼の下で大阪城台所頭を務めていた[[大角与左衛門]]が徳川方に寝返り、手下に命じて城の大台所に火を付けさせるという事態も発生し<ref name=zokushiseki>[[近藤瓶城]]編[{{NDLDC|1259278/35}} 『続史籍集覧 第8冊』「駿河土産 巻5」太閤に大角与左衛門と言者成立之事]、2017年11月25日閲覧。</ref><ref name=jikki>[{{NDLDC|1917811/145}} 『徳川実紀 第1編』「東照宮御実紀附録 巻16」]、p. 273、2017年11月25日閲覧。</ref>、全体に延焼した大坂城は灰燼に帰し、落城した<ref name=jikki/>。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという。なお、大阪城陥落直後の1615年6月11日付の長崎の平戸オランダ商館の関係者の報告では、徳川家康側に赦免を得るために寝返った数名の大名が秀頼を裏切り、城に火を放って逃亡を図るが適わず、その場で城壁から突き落とされて死亡したとされている<ref>朝日新聞2016年9月22日朝刊34面に掲載された記事より</ref>。
 
翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに[[籾]]蔵の中で勝永に介錯され自害した<ref group="注釈">現在の[[大阪城公園]]内には天守閣北側の山里丸跡に「自刃の地」と記した碑があるが、落城・焼失後に江戸幕府が再建した際に縄張りを改めており、豊臣時代のものとは位置に若干の相違がある。また、自害の地としては籾蔵の他に「山里丸内の隅櫓」など諸説がある</ref>。
 
現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂の役に参戦した[[福岡藩]]主[[黒田長政]]が当時一流の[[絵師]]を集めて描かせた大作の[[屏風絵]]「[[大坂夏の陣図屏風]]」通称、「黒田屏風」([[重要文化財]])の左半分には、[[乱妨取り]]に奔った徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を[[手篭め]]にする様子などが詳細に描かれている。落城後の混乱の中でも豊臣勢の抵抗はしばらく続いた<ref>[http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20170423/KT170415FTI090002000.php 大坂夏の陣を記した新史料、松本で発見 落城後も緊迫]</ref>。
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== 戦後処理 ==
秀頼の子の[[豊臣国松|国松]]は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の[[天秀尼]]は僧籍に入ることで助命された。[[豊国社]]は廃絶され、家康の指示で大仏の鎮守にするために方広寺大仏殿の裏手に遷された。大阪城に残された豊臣家の財宝は、家康の指示で、1か月余りにわたりくまなく捜索され、焼けた倉庫跡から金1万8000枚、銀2万4000枚を発見しすべて回収した<ref>{{Cite book|和書|author=磯田道史|title=日本史の内幕|seies=中公新書 |year=2017年 pp.|pages=80-85}}</ref>。長宗我部盛親はじめ残党の追尾は10年以上に亘って行われた(徳川幕府転覆を企てた[[由井正雪]]の片腕とされた[[丸橋忠弥]]は長宗我部盛澄といい盛親の側室の次男という)。盛親以外には、[[細川興秋]]は父・[[細川忠興]]から自刃を命じられ、[[増田長盛]]は盛次の罪を背負う形で配流先の[[岩槻区|岩槻]]で、また[[古田重然]]は豊臣に内通したという疑いから自刃した<ref>「古田織部」『日本人名大辞典』講談社。</ref>。[[明石全登]]の行方は定かではないが、その息子・明石小三郎は[[寛永]]10年([[1633年]])に薩摩で捕まっている。
 
その一方で、仙台藩では、捕虜となった[[長宗我部盛親]]の姉妹の子である[[柴田朝意]](父は長宗我部家臣の[[佐竹親直]])が仙台藩の奉行になったり、信繁の子の[[真田守信]]が仙台藩重臣[[片倉重長]]に匿われて、後に仙台藩に仕官したりしており、実際の残党狩りは藩により温度差が生じている。また、旧室町幕府幕臣であった[[真木島昭光]]がかつての同僚である細川忠興らの嘆願で助命されるなど、特別な事情で処刑を免れた事例もあった。
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=|author=[[笠谷和比古]]池上裕子|chapterauthorlink= 池上裕子|title=関ヶ原合戦織豊政権大坂の陣江戸幕府|year=20072002|month=101|publisher=[[吉川弘文館講談社]]|series=戦争の日本の歴1715|isbn=978-4-64206-06327268915-24 |ref=笠谷池上}}
* [[宮本義己]]「徳川家康公の再評価」(『大日光』64号、1992年)
* {{Cite book|和書|editor=|author=[[池上裕子]]笠谷和比古|chapterauthorlink= 笠谷和比古|title=織豊政権関ヶ原合戦江戸幕府大坂の陣|year=20022007|month=110|publisher=[[講談社吉川弘文館]]|series=戦争の日本の歴1517|isbn=978-4-06642-26891506327-42 |ref=池上{{SfnRef|笠谷|2007}}}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=[[笠谷和比古]]|chapter= |title=関ヶ原合戦と大坂の陣|year=2007|month=10|publisher=[[吉川弘文館]]|series=戦争の日本史17|isbn=978-4-642-06327-2 |ref=笠谷}}
*『[[大日本史料]] 第12編』([[東京大学史料編纂所]])
*『日本戦史 大坂役』([[参謀本部 (日本)|参謀本部]])
* {{Cite book|和書|editor=[[日本歴史学会]]|author=[[曽根勇二]]|chapter= |title=片桐且元|year=2001|month=2|publisher=吉川弘文館|series=[[人物叢書]]|isbn=978-4-64-205221-4 |ref=片桐}}
* {{Cite book|和書|author=曽根勇二|title=大坂の陣と豊臣秀頼 (|series=敗者の日本史) 』(|publisher=吉川弘文館|year=2013年)ISBN-13: |isbn=978-4642064590}}
*『大坂の陣』([[学研ホールディングス|学研]]歴史群像シリーズ40)
*『戦況図録 大坂の陣』([[新人物往来社]]別冊歴史読本56)
* {{Cite book|和書|editor=|author=[[渡邊大門]]|chapterauthorlink= 渡邊大門|title=大坂落城  戦国終焉の舞台|year=2012|month=9|publisher=[[角川学芸出版]]|series=角川選書|isbn=978-4-04-703512-6 |ref={{SfnRef|渡邊|2012}}}}
* {{Cite book|和書|author=長浜市長浜城歴史博物館|title=片桐且元:豊臣家の命運を背負った武将|publisher=サンライズ出版|date=2015|isbn=9784883255733|ref=harv}}
*[[田端泰子]]「「大阪冬・夏の陣」に収斂する淀殿の役割」(『京都橘女子大学女性歴史文化研究所紀要』11号、2003年)
* {{Cite book|和書|author=長浜市長浜城歴史博物館橋本政宣|chapter=禁中并公家中諸法度の性格|title=片桐且元:豊臣近世公社会命運を背負った武将研究|publisher=サンライズ出版吉川弘文館|dateyear=20152002|isbn=97848832557334642033785|ref=harv{{SfnRef|橋本|2002}}}}
 
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Siege of Osaka}}