「前神寺」の版間の差分

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== 概要 ==
[[File:Maeɡamizi ɨ0.jpg|220px|thumb|成就社]]
西日本最高峰石鎚山の7合目標高1400mにあり、発祥より千年法灯を守ってきた山岳寺院であったが、江戸時代以降の変遷により、麓の西田に本拠を移すも、数十年後の神仏分離令により廃寺の憂き目に遭い苦難の末再建し現在の隆盛に繋げている。本堂前での柴燈護摩は節分・お山開き開闢・閉闢の年三回あり、さらにお山開き開闢時には石鎚登山ロープウェイ下谷駅前でも催行され、不動護摩は、新年当初と毎月2820日行われ、新年当初には護摩堂に続いて奥前神寺でも管長自ら導師として催行している。
== 歴史 ==
役の行者([[役小角]])が石鎚山の中腹で修行頂上目指挫けあまりの厳しさで諦めて下山しようとしたとき老人が現れ斧を砥石で磨ぐ老人に出会ていて行者いに答えてうと曰く「之は磨いて針にするのだ」と、この言葉に行者は挫折してはならない「成せば成る」と自分に言い聞かせ励まされ再び頂上に向かい登り着き、さらに行を続け[[蔵王権現]]を感得し蔵王権現像を彫り開山したとされる。そして、行者が当地(現在は[[石鎚神社]]中宮成就社のある場所)まで下山してきたとき「わが願い成就せり」と云ったといわれる
後に石仙が[[桓武天皇]]([[782年]]〜[[805年]])の病気平癒を[[祈願]]し[[成就]]したことによって、当地(現在は[[石鎚神社]]中宮成就社のある場所)に[[七堂伽藍]]が建てられ金色院前神寺として開かれたと伝えられる。さらに『三教指帰』に[[空海]](弘法大師)自ら記されているように空海も若い時に修行をし、後年、巡錫している。また、[[文徳天皇]]、[[高倉天皇]]、[[後鳥羽天皇]]、[[順徳天皇]]、[[後醍醐天皇]]など多くの歴代[[天皇]]の[[信仰]]が厚かったことでも知られる。そして、山頂の弥山に存在する[[石鉄権現|石鈇山大権現]]の[[別当寺]]で、東の遥拝所でもあった。
 
江戸時代初期には、札所としての便宜をはかるため麓に出張所として里前神寺(現在の石鎚神社口之宮本社の場所)を設置し、本寺を奥前神寺と呼び区分するようになった。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は、6月1日から3日の三日間しか許されていなかった<ref>寂本『四國徧禮霊場記』の里前神寺の項より</ref>。また、[[西条藩]]主である[[松平家]]の信仰も集め松平頼純は寛文10年(1670年)[[東照宮]]を里前神寺にまつり、[[三葉葵]]の寺紋を許した。
 
文政8年(1825)別当を名乗るようになっていた[[横峰寺]]と別当職の独占を争い幕府の裁定を受け、勝つことができたため、奥前神寺は常住社、里前神寺は前神寺と称するようになり本寺の機能も移されるようになった。
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: 午前9時ごろ下谷駅の後方広場で柴灯護摩を行い、ロープウェイで山上駅へ上がり奥前神寺に到着後、権現様の御開帳が行われ午前10時頃には本日の行事は終了。
: 7月1日から10日は、奥前神寺で朝夕5時より護摩が焚かれ参拝者を迎え入れる。この期間は志料で権現様の開帳を受けることができ、特別護摩も随時催行される。
: 7月11日午前6時に奥前神寺を出発した権現様と信者達はロープウェイで下山。一方、前神寺を午前6時にバスで山に向かった信者達と下谷駅で合流後、白衣に身をかためた[[信者]]や[[山伏]]たち一行が[[法螺貝]]の音に[[仏]]の名を称えながら3つの唐櫃(からびつ)に入れられた権現像を担ぎ黒瀬峠を越え前神寺へ列をなし約20kmを歩いて帰る。途中、御旅所で待ち構えた一般信徒は拝戴を受ける。帰寺後、待ち構えた信徒たちと昼頃本堂前で柴燈護摩が行われる。
== 交通案内 ==
; 鉄道