「年寄名跡」の版間の差分
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Delmonta iijima (会話 | 投稿記録) m →現行の条件: 寶智山の名跡取得時期の件、明らかに「2013年」の誤記。他にも本項全体でいろいろとアラがありそうなので、書き換えずに一旦ノート送り。 |
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{{出典の明記|date=2013年10月}}
'''年寄名跡'''(としよりめいせき、みょうせき)とは、[[日本相撲協会]](以下、「協会」)の「年寄名跡目録」に記載された[[年寄]]の名を襲名する権利であり、俗に'''年寄株'''、'''親方株'''とも呼ばれる。
== 概要 ==
元[[力士]]が引退後も協会に残
年寄名跡は、江戸相撲の勧進元の一人であった雷権太夫らが組織した株仲間がその原型とされている。江戸幕府の認可を得て勧進相撲の公許興行が行われた1684年(貞享元年)当時、名跡の数は15名前後だったとみられているが、相撲興行が軌道に乗るにつれて、名跡の数が増えてゆくこととなった。
年寄名跡所有者は、常に
:『大相撲ジャーナル』2017年6月号68頁</ref>。選手寿命が短い(30歳代で引退)相撲界においては、[[年金]]的な要素も持っている。
年寄襲名条件は、基本的に現役時代の実績が必要な傾向にあるが、昭和の中頃までは、養子縁組や職務能力等の要素を有していれば、実績・最高位が他の力士より劣っていても年寄襲名の際に有利に立てる傾向にあった。例として、1961年1月1日付で年寄65歳停年制が施行されて以降、昭和の内に停年を迎えた年寄43人の内25人が三役以上未経験者であり、その内最高位・平幕2ケタ台が6人、最高位・十両が4人であった。ところがそれ以降は現役時代の実績を重視する傾向が顕在化した。平成に入って初めて年寄として停年退職した[[大田山一朗|大田山]](元前頭20枚目、停年時点で年寄・錦戸)から停年制導入以降104番目に年寄として停年退職(退職後に再雇用された者を含む)となる[[玉ノ富士茂|玉ノ富士]]にいたる61人の中で最高位が平幕以下の年寄は21人であり、停年退職を迎えた年寄の比率として三役以上の経験者が増えた<ref>『相撲』2013年11月号75頁</ref>。特に1998年に名跡取得要件の変更により、三役未経験の力士の要件到達が格段と難しくなった。
名跡は勝手に創設することは
1998年には貸株の実態の公開と今後の貸株の禁止を打ち出したが、数年で有名無実化し、なし崩し的に貸株が再解禁となり、改革の一環として創設された準年寄も廃止された。また、2014年の公益財団法人移行に合わせて、名跡は協会管理とされ、全年寄が協会に名跡証書を提出し、借株および金銭授受は禁止された。しかし、その後も借株の年寄は存在する。 {{see|年寄株問題}}
年寄名跡は一門内でやり取りするのが常識的な方法であり、一門外へ株を売却することは理事選での票数の減少を意味するため好ましくなく、一門制度を軽んじる行為として取得する側も批判される。過去には[[益荒雄広生|阿武松]]が[[大麒麟將能|押尾川]]から、[[光法賢一]]が[[竹葉山真邦|宮城野]]から、両者とも門外の株を襲名したという理由で、前者は押尾川部屋から、後者は立浪一門から破門された。『相撲』2013年11月号は、1961年1月1日より施行された年寄の65歳停年退職制度の影響で、後継者探しに苦労する親方衆が増えた結果として、一門外まで奔走して後継者を求めるようになり、このことから停年制が名跡が所属していた一門外へ流出する原因となったと解釈すべきであるという内容の主張をしており、近年になって一門制度の実質が弱まっている点との関連が指摘される。
また、年寄名跡を一人で複数所有することは禁止されている。そのため、借株の貸主は必然的に、現役力士と退職した元年寄になる。
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== 関連項目 ==
*[[江戸相撲会所]] - この制度の前身となる株仲間を期限とする組織。
*[[現役年寄一覧]]
*[[年寄株問題]]
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