「玉の海正洋」の版間の差分

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初顔合わせで勝利した大鵬にはその後も大鵬が「精神的に堅くなった」<ref>「大鵬自伝」(大鵬幸喜著、ベースベールマガジン社刊、1972年)、176頁で大鵬自身が認めている。</ref>こともあり、一時は3勝1敗とリードしたが、対戦を重ねるにつれて逆に玉の海(玉乃島)が全く勝てなくなり、1965年9月場所から1969年7月場所までは1不戦勝を挟んで16連敗を喫した(最終対戦成績は玉の海の7勝21敗(うち不戦勝1)。他に優勝決定戦で1勝1敗)。大鵬は「玉の海君に上手さえ取らせなければ、左右どちらの四つでも相撲は取れるし、勝てる」<ref>前記「大鵬自伝」、223頁。</ref>と見ており、実際に玉の海が右四つに組んでも左上手が取れず、逆に大鵬が右の差し手からの寄りや掬い投げで玉の海を圧倒した。また、玉の海の大関時代までは大鵬が離れて相撲を取り、玉の海が懐に飛び込むこともできずに敗れる相撲も多く、地力の差を感じさせる内容となっていた。横綱昇進後も玉の海は大鵬に2度にわたり千秋楽に全勝を止められ、最後まで壁となった。
 
[[1969年]]9月場所に13勝2敗の成績で2度目の優勝を果たしたが、同年11月場所は10勝5敗に終わり、13勝2敗で優勝した北の富士と明暗を分ける格好となった。[[1970年]]1月場所は「北の富士と玉乃島の横綱争い」というキャッチフレーズが出た。横綱昇進を巡ってはライバルの北の富士は「12勝の準優勝で横綱になれる」と言われ、当の玉乃島に関しては「ともかく13勝をやることだ。過去2回も惜しいところで見送られた実績がある。審議会の中にもこの点で同情している人もいるじゃないか」と救いの手を差し伸べる意見が見られた<ref name="yokosho">雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p92-97。</ref>。この場所は中日までに2敗したため、その時点では綱取りは駄目かと思われたが、残りをすべて勝って13勝2敗の成績を挙げた<ref name="yokosho"/>。北の富士との優勝決定戦には敗れたが、場所後に2人が揃って横綱に推挙され(審議委員会の評価では玉の海が上だった)、「北玉時代」の到来といわれた{{Efn2|ちなみに玉の海の横綱昇進2場所前の成績は10勝5敗であり、これは年6場所制定着後の横綱昇進2場所前の成績としては最低のものであり(参考として柏戸は11勝)、11勝以下ならば綱取りが白紙になるとされる(例として[[貴乃花光司]]の項を参照されたい)平成以降の基準ではまず考えられない昇進であった。}}<ref name="nishonoo22"/>。[[横綱土俵入り]]は当時から後継者の少なかった「不知火型」を選択、土俵入りの指導は大鵬が務めた{{Efn2|大鵬は雲龍型だが玉の海とは同門で、当時生存していた不知火型の元横綱は[[吉葉山潤之輔|吉葉山]](立浪一門)のみであった。}}。これ以降、性格が正反対の玉の海と北の富士は親友になり、互いに「北さん」「島ちゃん」と呼び合う間柄になった。ちなみに北の富士が玉の海を「島ちゃん」と呼んでいたの玉の海のかつての四股名である「玉乃島」にちなんだものであった由来する)
 
=== 横綱昇進 ===
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=== 惜しまれる死 ===
余りにも突然の玉の海の死に周囲の人々は狼狽し、ショックを隠し切れなかった。最大のライバルで親友だった北の富士は、巡業先の[[岐阜県]][[羽島市]]で「玉の海関が亡くなりましたよ」との一報を聞いた時、最初は「[[玉ノ海梅吉|解説の玉の海さん]]が亡くなったのか?」と思い確認を取らせた。関係者が「現役横綱の玉の海関のことです」と伝えても、北の富士は「ふざけるのもいい加減にしろ!」と立腹し、全く信じなかったという。しかしその後、亡くなった人物が間違いなく親友の横綱・玉の海本人であるという事実が判った時、北の富士は「島ちゃんが死んだと思ってない!(玉の海の愛称)」と、その場で人目もはばからず号泣した。
 
逝去当時、玉の海の死に顔を見た人々は、口を揃えて「無念の形相だった」と語っていた。付け人の一人が、広い肩幅の広い(これが最大の武器で相手に上手を与えなかった玉の海の納棺された姿を見て、付け人の一人が「横綱、窮屈そうだな…」と言い、その場にいた人々は涙が止まらなかったという。
 
=== エピソード ===