「浅沼稲次郎」の版間の差分
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[[1955年]]に[[社会党再統一]]が実現すると、書記長に就任する。書記長という役職柄、党内で対立があると調整役にまわって「まあまあ」とお互いをなだめる役割に徹したことから、「まあまあ居士」などとも呼ばれた。また長年にわたって書記長を務めてきた実績と、長年書記長を務めていながらトップである委員長のポストが巡ってこない境遇をかけて「万年書記長」とも呼ばれた。
[[1959年]]、訪中した浅沼は[[中華人民共和国]]の「[[一つの中国]]」論に賛同し、「[[アメリカ帝国主義]]は日中両国人民の共同の敵」と発言した<ref>{{cite news |date=2015年5月9日 |title=【安保改定の真実(7)】先鋭化する社会党「米帝は日中の敵!」 5・19強行採決で事態一転…牧歌的デモじわり過激化 そして犠牲者が |url=http://www.sankei.com/premium/print/150506/prm1505060032-c.html |language= |newspaper=産経新聞 |accessdate=2015年8月17日 }}</ref>。草稿は党内左派で、浅沼が「ゴクサ([[極左]]の誤読)」と呼んだ[[広沢賢一]]に命じた物だった。特に「アメリカ帝国主義」を「敵」と名指しした発言は、国内外に大きな波紋を広げた。[[自由民主党_(日本)|自民党]]の[[福田赳夫]]はすかさず抗議電報を打ち、「浅沼の失言」アピールに成功した。特に、帰国時に飛行機のタラップを中国の工人帽を着用して降りてきたことについては[[右翼]]はもちろん[[世論]]、党内の反発を受けた。[[曾禰益]]らからは今回の書記長の態度には同意できないとの主張がなされ
1960年、西尾末広らが社会党を離党して[[民社党|民主社会党(民社党)]]を結成すると、[[鈴木茂三郎]]委員長は辞任し浅沼が後任の委員長に選ばれた。浅沼は[[安保闘争]]を前面にたって戦い、[[第2次岸内閣改造内閣|岸信介内閣]]を総辞職に追い込むが、安保条約の廃案を勝ち取ることはできなかった。また民社党は続く[[第29回衆議院議員総選挙|1960年総選挙]]に、麻生久の子で浅沼も目を掛けていた[[麻生良方]]を浅沼の対立候補として東京1区に立てるといった、全面対決の姿勢を見せた。
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