「李承晩」の版間の差分

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[[朝鮮戦争]]の前後から反共政策・[[プロパガンダ]]は激しさを増し、激しい戦禍を経験した韓国社会には[[共産主義|共産主義者]]を敵視する強い反共意識が芽生えほぼ国民的合意となった。だが、北朝鮮の侵攻を受けた韓国が混乱し半島南端の[[釜山]]にまで追いつめられるほどの醜態をさらしたのは、李承晩個人の資質によるところが大きい<ref>[[#田中(2011)|田中(2011:70-73)]]</ref>。
劣勢に陥ると独立運動の仲間だっ[[申翼煕]]、[[張沢相]]、[[チョ奉岩|曺奉岩]]など韓国国会議長団と共に誰よりも早く逃げ出し、首都ソウルが北朝鮮に侵攻されつつある中で偽りの録音放送をしてソウルから逃げたが、[[渡江派]]と批判されている。自分は[[在韓米軍]]基地に避難しながらも避難民で大混乱状態の漢江の橋をかまわず爆破、犠牲者を出すばかりか多くの非戦闘員が取り残されてしまった。逃亡したことへの対国民謝罪文を発表することを薦められると「俺が[[唐]]の[[徳宗 (唐)|德宗]]か?」と謝罪を拒否した。逆に放送や命令を信じてソウルに残った韓国の残留派に謝罪も慰労せずに「情実と寛容と脱落が絶対にありえない」という恐怖の「反逆者処罰」を行った<ref>[http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17463.html]</ref>。。韓国側が優勢になったと見るや誰よりも目立とうとして先頭に立ち、仁川上陸作戦で北朝鮮軍の掃討が成功しつつある際に連合軍としての規律を無視して[[大韓民国国軍]]部隊を勝手にソウルに先行させた。韓国から[[38度線]]を越えた北朝鮮への逆進攻が敢行されたのも、国連軍のマッカーサー司令官の意図もあったものの、最初にそれを決断したのは李承晩の独断専行であった<ref>[[#田中(2011)|田中(2011:70-73)]]</ref>。
 
[[国民の父|建国の父]]となるべき反共の大統領・李承晩は、生涯大統領を望み、次第に非民主的・[[権威主義]]的な性格を現し始めた<ref group="註釈">[http://ehistory.korea.kr/pop/movie_pop.jsp?srcgbn=KV&mediaid=2304&mediadtl=9174&gbn=DT&quality=W]{{lang|ko|우리 대통령}}(わが大統領)という李大統領を称賛する歌がある。</ref>。大統領であり続けるために憲法改正の強行や選挙への不正介入を繰り返し、国会での政敵や選挙の民主化・不正の真実を求める民衆を「容共的」「北のスパイ」「平和統一論を唱えた」「パルゲンイ(共産主義者の蔑称)」等と斬り捨て激しく弾圧した。しかし、最終的に彼を大統領の座・建国の父の座から追い落とすことになったのは、[[四月革命 (韓国)|4・19学生革命]]での民衆の力であった。