「新井白石」の版間の差分

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その後、順庵は[[元禄]]6年(1693年)、[[甲府藩]]主である[[甲府徳川家]]への仕官を推挙した。白石が37歳の時である。藩主・[[徳川家宣|徳川綱豊]]は当初、[[林家 (儒学者)#林家(大学頭家)|林家]]に弟子の推薦を依頼したが、当時の綱豊は将軍・[[徳川綱吉]]から疎んじられており、林家からは綱豊に将来性なしと見限られ断られてしまった。そこで順庵の方に推挙を依頼してきたのである。
 
甲府徳川家の提示した内容は、当初三十人扶持の俸禄だったが、順庵が「白石よりも学問が劣る弟子でさえ三十人扶持などという薄禄はいない。これでは推挙できかねる」と掛け合った結果、甲府徳川家からは改めて四十人扶持が提示された。これでもなお順庵は推挙を渋ったが、白石は「かの藩邸のこと、他藩に準ずべからず(将軍家の[[御連枝]]である[[甲府徳川家]]は他の大名家とは訳が異なる)」と、むしろ綱豊の将来性を見込んで順庵に正式に推薦を依頼したのである。
 
=== 正徳の治 ===