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'''野崎左文'''(のざき・さぶん、[[1858年]]9月26日-[[1935年]]6月8日)明治期の新聞記者、狂歌師。本姓は布掛氏。本名は城雄、幼名を新次郎という。別号に蟹廼屋、愛蟹子、無膓翁、里山人、長屋奥住、坂上神楽麿など。政治家の[[馬場辰猪]]や作家の[[馬場孤蝶]]とは従兄弟の間柄となる。▼
|出典の明記=2019-01
|単一の出典=2019-01
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▲'''野崎 左文'''(のざき
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[[土佐国]][[高知市|高知]]七軒町に生まれ、生後100日で同じ[[土佐藩]]士・野崎権治の養子となる。[[慶応]]2年(1866年)に[[長崎市|長崎]]に遊学し英語を学ぶ。1869年(明治2年)に藩費生として上京し[[大学校 (1869年)#大学南校|大学南校]]に2年半、さらに藩立の英学校をへて大阪の開成学校に学ぶ。父が商売に失敗したため学業を中断し、1873年(明治6年)に神戸鉄道寮の外国技師付き雇員となり、1874年(明治7年)末に東京に
南校在学の頃から貸本屋の常連となりいわゆる「小新聞」に戯文を投書して、伊東橋塘・山田風外などと交わるようになり、1876年(明治9年)には鉄道寮の同僚であった河原英吉の紹介で[[仮名垣魯文]]の門下となって「蟹垣左文」と号する。
1880年(明治13年)に工部省を辞め「仮名読新聞」の見習記者として働き、翌年には明治日報に招かれるが2年足らずで退社する<ref> 1892年(明治25年)、「国会」を辞し『日本名勝地誌』12巻の編纂をしながら、1895年(明治28年)まで[[万朝報]]に勤め、これをもって記者生活の打ち止めとする<ref {{Cquote|''後の世はどんなに生まれかはるかと思へば死ぬも楽しみなもの''}}
狂詩狂歌の創作と明治文学研究で業績を残し、[[1927年]](昭和2年)に公刊された『私の見た明治文壇』は日本近代文学史の貴重な文献である。
==著作==
*『私の見た明治文壇〈1〉』[[平凡社]]<[[東洋文庫 (平凡社
*『増補 私の見た明治文壇〈2〉
== 脚注==
<references/>
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[柳田泉]]|year=1959|title=随筆明治文学3|publisher=[[平凡社]]|ref=柳田1959}}
{{デフォルトソート:のさき さふん}}
[[Category:明治時代の人物]]
[[Category:高知県出身の人物]]
[[Category:土佐国の人物]]
[[Category:狂歌師]]
[[Category:1858年生]]
[[Category:1935年没]]
[[Category:日本の鉄道官僚]]
[[Category:日本の新聞記者]]
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