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ISLAM1030 (会話 | 投稿記録)
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;[[アクバル]]
:第3代君主(在位:[[1556年]] - [[1605年]])
:2代君主[[フマーユーン]]の子。4代皇帝[[ジャハーンギール]]の父。
:帝国を再興し、都を[[アーグラ]]に定めた。ジズヤを廃止しヒンドゥーとの和解に努め、[[ラージプート]]との同盟関係の構築を本格的に行った。1576年までに[[北インド]]の統一した。税制の面では[[ザブト制]]を施行、全国を州・県・郡に分け中央集権化策を進めた。
;[[アウラングゼーブ]]
:6代君主(在位:[[1658年]] - [[1707年]])
:第5代君主[[シャー・ジャハーン]]の三男。7代君主[[バハードゥル・シャー1世]]の父。
:厳格な[[スンナ派]]でジズヤを復活。[[シーア派]]・[[ヒンドゥー教]]の弾圧を行った。帝国最大の領土を獲得したが諸地方や[[シク教徒]]の反乱を招いた。
 
=== オスマン-トルコ帝国 ===
{{main|オスマン帝国の君主}}
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;[[オスマン1世]]
:[[オスマン帝国]]の初代[[オスマン帝国の君主|皇帝]](在位: [[1299年]] - 1326年)
:[[アナトリア半島|アナトリア]]西北部の[[トルコ人]]首長[[エルトゥールル]]の子。2代皇帝[[オルハン]]の父。
:[[ルーム・セルジューク朝]]から独立を宣言して[[オスマン帝国]]を建国。[[ビザンツ帝国]]とコユンヒサルの戦いでこれを破り領域を広げた。
;[[メフメト2世]]
:第7代[[スルタン]]([[オスマン帝国の君主|皇帝]]、在位: [[1444年]] - [[1446年]]、[[1451年]][[2月18日]] - [[1481年]]5月3日)
:6代皇帝[[ムラト2世]]の子。8代皇帝[[バヤズィト2世]]の父。
:[[1453年]][[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープルを陥落]]させ[[ビザンツ帝国]]を滅ぼした。そしてこの地に遷都した([[イスタンブール]])。[[黒海]]沿岸・[[バルカン半島|バルカン]]にも進出した。
;[[セリム1世]]
:第9代[[皇帝]](在位:[[1512年]] - 1520年)
:8代皇帝[[バヤズィト2世]]の子。[[スレイマン1世]]の父。
:[[1514年]][[サファヴィー朝]]を[[チャルディラーンの戦い]]などで討ち、翌[[1516年]]に[[アルジェ]]を占領、[[マルジュ・ダービクの戦い]]で[[マムルーク朝]]軍を破って翌[[1517年]]には首都[[カイロ]]を落として[[シリア]]を攻略。聖地[[マッカ|メッカ]]、[[メディナ]]を保護下に置いた。
;[[スレイマン1世]]
:第10代[[オスマン帝国の君主|皇帝]](在位:[[1520年]] - 1566年)
:[[セリム1世]]の子。11代皇帝[[セリム2世]]の父。
:中央集権体制を整えオスマン帝国の最盛期を気づき、[[トルコ]]では法典を編纂し帝国の制度を整備したことから「'''立法帝'''(カーヌーニー」と称される。[[西アジア]]・[[北アフリカ]]・[[東ヨーロッパ|東欧]]を支配しフランスの[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と同盟を結び([[カピチュレーション]])西欧諸国を圧倒した。
 
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*[[王室]]、[[王国]]、[[王朝]]
*[[日本国王]]
*{{ill2|王が死んでも、王制は不滅!|en|The king is dead, long live the king!}}(もしくは、前王は身罷れた、次王万歳) - 王が死んでも、次の王に王位が継承され、王国が何代も続くことを願った外国語の慣用句(元はフランス語:Le roi est mort, vive le roi!、英語:The king is dead, long live the king!)
 
;君主以外の国家元首