「胡耀邦」の版間の差分

 
==総書記選出までの経歴==
[[1933年]]、[[中国共産党]]に入党<ref name="whoswho423"/>。大学卒業。中華人民共和国の建国後は、[[中国共産主義青年団]](共青団)第一書記、[[陝西省]]党委員会第一書記などを歴任したが、[[文化大革命]]が始まると[[1967年]]に実権派と批判されて失脚<ref name="whoswho423"/>。後に党主席となる[[華国鋒]]は、胡耀邦が[[湖南省]]党委に下放された時の部下だった。
 
文革後期の[[1972年]]に復活。[[鄧小平]]が2度目の復活を果たした[[1975年]]に[[中国科学院]]副秘書長となり<ref name="whoswho423"/>、鄧小平が打ち出した「全面整頓路線」(軍隊、地方の党・行政組織、工業、農業、商業、文化、科学技術の整頓・再建)を推進し、優秀な人材の抜擢や育成などを行う。翌[[1976年]]、[[周恩来]]追悼の[[第1次天安門事件]]が発生して鄧小平が再失脚すると、胡耀邦もともに失脚した<ref name="whoswho423"/>。しかし、[[1977年]]鄧小平の再復活にともない、[[中国共産党中央組織部|党中央組織部]]長に就任し、建国以来、特に文化大革命中に冤罪で失脚した長老たちや右派分子と認定されていた者の名誉回復を行った<ref name="whoswho423"/>。[[1978年]]には、胡は党の理論研究の場である[[中国共産党中央党校|中央党校]]の副校長を兼任していたが、このとき南京大学の哲学の教授であった胡福明の論文「実践こそ真理を検証する唯一の基準である」に目をとめた<ref name="tabata58">田畑(1995年)58ページ</ref>。この論文をもとに、華国鋒の拠り所となっていた「[[二つのすべて]]」を批判し、文革路線からの脱却を図る鄧小平を援護した<ref name="tabata58"/>。同年12月の[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]]において鄧小平の実権掌握に貢献し、同会議において胡耀邦は[[中国共産党中央政治局|中央政治局]]委員に昇進し、党中央秘書長兼[[中国共産党中央宣伝部|中央宣伝部長]]に抜擢された<ref name="mouri103">毛利(2006年)103ページ</ref>。さらに[[1980年]]2月に開催された[[中国共産党第十一期中央委員会第五回全体会議|第11期5中全会]]において、[[中国共産党中央政治局常務委員会|中央政治局常務委員]]・[[中国共産党中央書記処|党中央書記処]]総書記に就任した<ref name="whoswho423"/>。以後、鄧小平のもとで文革の清算と改革開放政策が進められる中、[[1980年]]9月、党主席・[[中華人民共和国国務院総理|国務院総理]](首相)だった華国鋒は、経済政策や文革への姿勢などを批判されて総理を辞任した(後継は[[趙紫陽]])。さらに[[1981年]]の[[建国以来の党の若干の歴史問題についての決議|第11期6中全会]]で華国鋒は党主席をも解任され、胡耀邦が後継の党主席に就任した。鄧小平中央軍事委員会主席・胡耀邦総書記・趙紫陽首相によるトロイカ体制が確立され、この頃の胡耀邦は「天が落ちてきても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれる」と鄧小平が語るほどの信任を受けていた。
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