「和解契約」の版間の差分

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イングランドとスコットランドの条約
 
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'''和解契約'''(わかいけいやく、[[英語|英]]:Engagement)は、[[清教徒革命]]([[イングランド内戦]])期の[[1647年]][[12月27日]]、[[イングランド王国|イングランド]]王兼[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]とスコットランド貴族[[ハミルトン公爵]][[ジェイムズ・ハミルトン (初代ハミルトン公爵)|ジェイムズ・ハミルトン]]らが秘密裏に結んだ合意契約。イングランド[[円頂党|議会派]]に幽閉されていたチャールズ1世の救援を企て、スコットランド軍が契約に基づきイングランドへ侵攻、{{仮リンク|第二次イングランド内戦|en|Second English Civil War}}のきっかけになった。
 
[[1650年]]に[[イングランド共和国]]が国民に求めた別の契約である'''忠誠契約'''(ちゅうせいけいやく、英:同)についても説明する。
 
== 経過 ==
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内容はスコットランドの宗教についての要求が盛り込まれ、スコットランドの武力を背景に議会派を反逆者とするチャールズ1世の意向が働いていた。イングランドに長老派教会を3年間試験的に導入、独立派・[[イングランド国教会の分離派|分離派]]・[[アルミニウス主義]]などを異端として抑圧すること、見返りにチャールズ1世の復権にスコットランドが努力・保証することが約束された。議会が国王との協議を拒む場合、スコットランドがイングランドへ武力行使してでも国王を復権させることも記入され、ハミルトン公は約束通り盟約派の穏健派と一部[[騎士党|王党派]]を率いて{{仮リンク|エンゲージャーズ|en|Engagers}}を結成しイングランドへ出兵、猛反発した議会派も1648年1月にチャールズ1世との交渉を打ち切り、{{仮リンク|ニューモデル軍|en|New Model Army}}がスコットランド軍迎撃へ向かい第二次イングランド内戦が勃発した<ref name="松村235"></ref><ref>田村、P209 - P211、清水、P123 - P128。</ref>。
 
第二次内戦はイングランド各地で王党派が挙兵、ニューモデル軍司令官[[トーマス・フェアファクス (第3代フェアファクス卿)|トーマス・フェアファクス]]と副司令官[[オリバー・クロムウェル]]がそれらの鎮圧に奔走する中ハミルトン公はイングランドへ侵攻したが、8月の[[プレストンの戦い (1648年)|プレストンの戦い]]でクロムウェルの側面攻撃を受け大敗、捕らえられ処刑された。他の王党派もフェアファクスに撃破され、スコットランドでもアーガイル侯がハミルトン公と結んだ穏健派を追放しスコットランドに侵入したクロムウェルと和睦、第二次内戦は短期間であっけなく終わった。援軍が無くなり孤立したチャールズ1世は[[1649年]]1月に処刑され[[イングランド共和国]]が誕生するが、スコットランドはこれに激しく反発しアーガイル侯さえもイングランドの敵に回り、両国は再び戦争に突入した({{仮リンク|第三次イングランド内戦|en|Third English Civil War}})<ref name="松村235"></ref><ref>田村、P211 - P212、清水、P129 - P133、P172 - P173。</ref>。
 
なお、1650年1月にイングランド共和国とクロムウェルはイングランド在住の18歳以上の全男性に、国王も[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]も存在しない共和国に対して忠実であることを誓約するよう忠誠を求めた(忠誠契約)。背後を固めたクロムウェルは第三次イングランド内戦へ出陣したが、国民から信従を強引に取り付けた方法は誓約論争と呼ばれる論争を引き起こした。[[1660年]]、[[イングランド王政復古|王政復古]]で廃止された<ref name="松村235"></ref><ref>塚田、P160 - P161。</ref>。
 
== 脚注 ==
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* [[田村秀夫]]編『クロムウェルとイギリス革命』[[聖学院大学]]出版会、1999年。
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。
* [[塚田富治]]『近代イギリス政治家列伝 <small>かれらは我らの同時代人</small>』[[みすず書房]]、2001年。
* [[清水雅夫]]『<small>王冠のないイギリス王</small> オリバー・クロムウェル<small>―ピューリタン革命史</small>』[[リーベル出版]]、2007年。