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2018年入館者が1000万人を超えたや日本などへの海外作品貸出の加筆、内部リンク追加など記述整理。
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'''ルーヴル美術館'''(ルーヴルびじゅつかん、{{lang-fr-short|Musée du Louvre}})は、[[パリ]]にある[[フランス]]の国立[[美術館]]。世界最大級の美術館([[博物館]])であるとともに世界最大級の史跡のひとつで、パリ中心部[[1区 (パリ)|1区]]の[[セーヌ川]]の右岸に位置する。収蔵品380,000点以上。[[先史時代]]から[[19世紀]]までの様々な[[美術品]]35,000点近くが、総面積60,600平方[[メートル]]の展示場所で公開されている。世界で最も入場者数の多い美術館で、毎年800万人を超える入場者が訪れている<ref>{{cite web|url=http://www.travelandleisure.com/articles/worlds-most-visited-museums/1|title=World's Most-Visited Museums|author=Travel + Leisure|accessdate=31 October 2012}}</ref>、2018年は初めて1000万人を超えた<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019010501000641.html 「仏ルーブル入館者 最高の1000万人超/18年。前年比25%増/テロ落ち込み回復 ビヨンセさん効果も」]『[[東京新聞]]』夕刊2019年1月7日(2面)掲載の[[共同通信]]配信記事。2019年1月20日閲覧。</ref>。フランスの[[世界遺産]]である[[パリのセーヌ河岸]]にも包括登録されている<ref>{{cite web|url=http://whc.unesco.org/en/list/600/|title=Paris, Banks of the Seine|author=UNESCO|accessdate=2013-1-11}}</ref>。
 
そのコレクションの一部は、[[日本]]を含め海外へ貸し出されることも多い<ref>一例として、2018年に日本で開催された「[http://www.ntv.co.jp/louvre2018/ ルーヴル美術館展 肖像芸術 ―人は人をどう表現してきたか」(2019年1月20日閲覧)。</ref>。
 
==概要==
ルーヴル美術館は、[[フランス君主一覧|フランス王]][[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]が[[12世紀]]に、もともと元々は[[要塞]]として建設したルーヴル城([[ルーヴル宮殿]])に収容されている。現在の建物にも要塞として使用されていた当時の面影が一部残っているが、幾度となく増改築が繰り返されて、現在のルーヴル宮殿の建物となっている。[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の改築計画以来、歴代フランス王の王宮として使用されていたルーヴル宮殿だったが、1682年にフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が、自身の王宮に[[ヴェルサイユ宮殿]]を選び、ルーヴル宮殿の主たる役割は、1692年以来収集されてきた古代[[彫刻]]などの王室美術品コレクションの収蔵、展示場所となった<ref>{{cite web|url=http://www.louvre.fr/llv/musee/detail_repere.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673226981&CURRENT_LLV_PERIODE%3C%3Ecnt_id=10134198673226961&CURRENT_LLV_CHRONOLOGIE%3C%3Ecnt_id=10134198673226610&CURRENT_LLV_REPERE%3C%3Ecnt_id=10134198673226981&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500938&bmLocale=en&leftPosition=-300 |title=Louvre Website- Chateau to Museum, 1672 and 1692 |publisher=Louvre.fr |date= |accessdate=21 August 2011}}</ref>。1692年にはルーヴル宮殿に、[[フランス学士院]]碑文・美文アカデミーと王立絵画彫刻アカデミーが収容され、1699年に最初の[[サロン・ド・パリ|サロン]]が開催されている。アカデミーはその後100年にわたって、ルーヴル宮殿に設置されていた<ref>{{cite web|url=http://www.louvre.fr/llv/musee/detail_repere.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673226982&CURRENT_LLV_PERIODE%3C%3Ecnt_id=10134198673226961&CURRENT_LLV_CHRONOLOGIE%3C%3Ecnt_id=10134198673226610&CURRENT_LLV_REPERE%3C%3Ecnt_id=10134198673226982&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500938&bmLocale=en&leftPosition=-300 |title=Louvre Website- Chateau to Museum 1692 |publisher=Louvre.fr |date= |accessdate=21 August 2011}}</ref>。そして、[[フランス革命]]下の[[憲法制定国民議会]]で、ルーヴル宮殿をフランスが保有する優れた美術品を展示する美術館として使用することが決定された。
 
美術館として正式に開館したのは1793年のことある。このときには、王室所有だった、あるいは[[キリスト教]]の[[教会]]財産から没収された絵画を中心として、537点の絵画が展示されている。しかしながら、建物の構造上の問題から1796年にいったん閉館されており、1801年に再度開館した。[[フランス皇帝]][[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が、諸国から美術品を収奪したことにより所蔵品は増大していき、美術館も名前を「ナポレオン美術館 ({{lang|fr|Musée Napoléon}})」と改名したこともあった。その後、[[ワーテルローの戦い]]の敗戦で[[ナポレオン・ボナパルト]][[フランス皇帝]]位を追われ、ナポレオン軍が収奪していた美術品の多くが、もとの持ち主たちに返還されている。[[フランス復古王政|王政復古]]でフランス王となった[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]、[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]の統治時代、さらに[[フランス第二帝政|フランス第二帝政時代]]で、ルーヴル美術館の所蔵品はさらに増え続け、20,000点を超える美術品が集められた。その後に成立した[[フランス第三共和政]]が成立したが、この時代にもルーヴル美術館の所蔵品は遺贈寄贈などによって着実に増えていった。2003年に「[[イスラム美術]]部門」が創設され、所蔵品が「[[古代エジプト美術]]部門」「[[古代オリエント]]美術部門」「[[ギリシア美術|古代ギリシア]]・[[エトルリア]]・[[ローマ美術]]部門」「イスラム美術部門」「彫刻部門」「[[工芸品]]部門」「[[絵画]]部門」「[[素描]]・[[版画]]部門」の8部門に分類されることとなった<ref name="louvre.jp-Dept">{{cite web|url=http://www.louvre.fr/jp/departements |title=コレクションと学芸部門 |publisher=ルーヴル美術館 |date= |accessdate=2013-1-11}}</ref>。
 
== 沿革 ==
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==== 中世、ルネサンス期、ブルボン王朝期 ====
[[File:Donjon chateau louvre.JPG|left|thumb|ルーヴル宮殿地下室。中世ルーヴル城の面影が残る唯一の場所。<ref name="Mignot 32"/>]]
現在ルーヴル美術館として使用されているルーヴル宮殿は、12世紀に[[カペー朝]]第7代のフランス王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]](在位1180年 - 1223年)が[[要塞]]として建設したルーヴル城をもととしており、当時の建物の面影が現在も[[地下室]]に残っている<ref name="Mignot 32">Mignot,&nbsp;p.&nbsp;32</ref>。ただし、ルーヴル城が、すでに存在していた別の建造物を増改築した要塞だったのか、一から建てられた要塞だったのかどうかは伝わっていない<ref name="Edwards"/>。セーヌ川の中洲である[[シテ島]]は、[[中世ヨーロッパ|中世]]においてもパリの中心地であった。[[都市]]の防衛という面で、街の中心を流れるセーヌ川自体が防御の弱点となっていたため、防衛要塞たるルーヴル城が建設された<ref>『ルーヴル美術館の歴史』, pp. 17-18.</ref>。円筒形で、径約15メートルの[[キープ (城)|ドンジョン]](主塔、天守)の周囲に方形の城壁(約78×72メートル)を巡らした要塞は、20年余の歳月を要して完成した<ref>『ルーヴル美術館の歴史』, p. 17, 23.</ref>。この城壁は、現代のルーヴルのシュリー翼の位置にあたり、シュリー翼の中庭(クール・カレ)の南西側4分の1の面積に相当する。当時のルーヴルは[[宮殿]]ではなくまさに要塞であり、建物の役割は大部分が牢獄や人質の監禁場所にあてられていた<ref>『ルーヴル美術館の歴史』, p. 23.</ref>。パリ市の防衛のために建造されたルーヴル城であったが、この[[城]]が[[イギリス|英国]]など外国からの攻撃にさらされることは、結局なかった<ref name= "lvr 24">『ルーヴル美術館の歴史』, p. 24.</ref>。当時のルーヴルの[[遺構]]は、後の[[ナポレオン3世]]の時代、1866年にも[[発掘]]調査が行われているが、本格的・学術的な発掘調査が行われたのは1984年から1986年のことである<ref>『ルーヴル美術館の歴史』, pp. 22-23.</ref>。また、1991年に発掘された城壁の一部は、[[地下]]の[[ショッピングセンター]]の大ホールで一般に公開されている<ref name= "lvr 24" />。
 
「ルーヴル ({{lang|fr|louvre}})」 の語源については複数の説がある。12世紀後半のパリで最大の建築物だったことから「偉大な」を意味する[[フランス語]]「{{lang|fr|L'Œuvre}}」からという説、森の中に建てられたことから「[[オーク]]」を意味するフランス語「{{lang|fr|rouvre}}」からという説、『ラルース百科事典』の「狼狩り」と関係する[[ラテン語]]「{{lang|la|lupus}}」が変化した、[[東ローマ帝国|ビザンチン帝国]]で使われていたラテン語「{{lang|la|lupara}}」から派生したという説などがある<ref name="Edwards">Edwards,&nbsp;pp.&nbsp;193–94</ref><ref>In Larousse ''Nouveau Dictionnaire étymologique et historique'', Librairie Larousse, Paris, 1971, p. 430: ***'''loup''' 1080, Roland (''leu'', forme conservée dans ''à la queue leu leu'', ''Saint Leu'', etc.); du lat. lupus; loup est refait sur le fém. louve, où le *v* a empêché le passage du *ou* à *eu* (cf. Louvre, du lat. pop. lupara)*** the etymology of the word ''louvre'' is from ''lupara'', feminine (pop. Latin) form of ''lupus''.</ref>。また、[[7世紀]][[フランク王国|フランス]]の[[モー (フランス)|モー]]の[[女子大修道院長]]聖ファーレは「パリ地方にルーヴラ ({{lang|fr|Luvra}}) と呼ばれる邸宅がある」という記録を[[修道院]]に残しているが、この記述の「パリ」はおそらく現在のパリとは違う地域を指していると考えられる<ref>In Lebeuf (Abbé), Fernand Bournon, ''Histoire de la ville et de tout le diocèse de Paris par l'abbé Lebeuf'', Vol 2, Paris: Féchoz et Letouzey, 1883, p. 296: "Louvre".</ref>。
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ルーヴル美術館の開館は[[1793年]][[8月10日]]で、この日は前国王ルイ16世の[[処刑]]一周年に当たる日だった。週のうち三日間大衆に解放されたルーヴル美術館は「大いなる成果であるとして高く評価された」<ref>Oliver,&nbsp;p.&nbsp;35</ref>。開館当時のルーヴル美術館には、537点の絵画と、184点のその他の美術品が収蔵されていた。コレクションのうち4分の3ほどが王室美術コレクション由来で、残りはフランス革命で他国へ[[亡命]]した上流階級、[[ローマ]]・[[カトリック教会]]からの押収美術品を[[国有化|国有財産化]]したものだった<ref name="Alex 24"/><ref name="Nave">Mignot,&nbsp;pp.&nbsp;68,&nbsp;69</ref>。コレクションを拡張、系統立てて整理するために、毎年100,000[[リーヴル]]の献金が集まった<ref name="Nora 278">Nora,&nbsp;p.&nbsp;278</ref>。1794年から、フランス革命軍が[[北ヨーロッパ]]諸国から美術品を押収し始め、1797年2月に[[フランス第一共和政|フランス]]と[[教皇|ローマ教皇]]との[[平和条約|和平条約]]であるトレンチノ条約 ([[:en:Treaty of Tolentino]]) が締結されてからは、古代ローマ彫刻『[[ラオコーン像]]』や『ベルヴェデーレの[[アポロン]]』などの美術品が、[[ヴァチカン]]から押収されてフランスへと持ち込まれた。これらはルーヴル美術館を「[[国民]][[主権]]の象徴」たる一流の美術館とすることを目的としていた<ref name="Alex 24"/><ref>McClellan,&nbsp;p.&nbsp;7</ref>。
 
開館初期のルーヴル美術館は混沌としたものだった。[[特権]]を受けた芸術家が未だに美術館内に住んでいただけでなく、絵画の展示方法もまったく分類されておらず、「床から天上まで所狭しと」作品がかけられているだけだった<ref name="Alex 24">Alderson,&nbsp;p.24,&nbsp;25</ref>。その後、1796年5月に建物の構造上の問題からいったん閉館され、1801年7月に、作品を年代順に配置したうえで新たな[[照明]]が追加されて再度開館している<ref name="Alex 24"/>。
 
==== ナポレオン1世と第一帝政期 ====
[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]がフランスの実権を握り、[[ナポレオン戦争|ヨーロッパ諸国との戦争]]に勝利し続けたことによって、フランスの美術品コレクションは、諸国からの略奪美術品で溢れかえっていった<ref>Mignot,&nbsp;p.&nbsp;52</ref>。1798年から1801年の[[エジプト・シリア戦役|エジプト侵攻]]後、ナポレオン1世はルーヴル美術館の初代館長にドミニク・ヴィヴァン ([[:en:Dominique Vivant]]) を任命した。これにちなんで、1803年にルーヴル美術館は「ナポレオン美術館」へと改名され、[[スペイン]]、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]、[[オランダ]]、[[イタリア]]などの美術品が収蔵された。これらの美術品は、[[トレンチノ条約]]などの和平条約を無視して諸国から略奪された美術品だった<ref name="Alderson 25"/>。1815年の[[ワーテルローの戦い]]でフランスが敗北し、略奪された美術品のもとの所有者たちはその返還をフランスに求めた。しかしながら、ルーヴル美術館の上層部はこの要求にほとんど応じず、略奪美術品の多くを自分たちのプライベートコレクションに紛れこませて、隠匿しようとした。進まない返還交渉に憤った諸国は、ワーテルローの戦いで勝利したイギリスに特使を送り、美術品返還への協力を求めた。この結果多くの美術品が返還されたが、そのままルーヴル美術館に残された美術品も存在している<ref name="Alderson 25">Alderson,&nbsp;p.25</ref>。返還されずにルーヴルに残った主要な美術品に、[[アンドレア・マンテーニャ|マンテーニャ]]の『慈愛』、ヴェロネーゼの『[[パオロ・ヴェロネーゼ#カナの婚礼|カナの婚礼]]』、[[ロヒール・ファン・デル・ウェイデン]]の『受胎告知』などがある<ref>Mignot,&nbsp;p. 69.</ref>。[[フランス復古王政|王政復古]]後の1815年に、フランス王[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]とイタリアとの間に、未返還の略奪美術品についての協定が交わされた。例えば、現在もルーヴル美術館が所蔵するヴェロネーゼの『カナの婚礼』は、このときの協定でフランス人画家[[シャルル・ルブラン|シャルル・ル・ブラン]]の一大コレクションと交換され、もとの所有者であるローマの美術品収集家アレッサンドロ・アルバーニ ([[:en:Alessandro Albani]]) にも賠償金が支払われている。
 
==== 王政復古期、第二帝政期 ====
[[File:MG-Paris-Aphrodite of Milos.jpg|right|thumb|『[[ミロのヴィーナス]]』はルイ18世の時代にルーヴル美術館に収蔵された彫刻である。]]
ナポレオン1世が失脚し、フランスは[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]が王位に就いて、[[フランス復古王政|王政復古期]](1814年 - 1830年)に入る。ルイ18世と次王の[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]の治世下で、720,000[[フランス・フラン|フラン]]をかけてルーヴル美術館に135点の美術品が追加された。さらに、古代エジプト学者[[ジャン=フランソワ・シャンポリオン]]の指揮のもと[[古代エジプト]]美術品の専門部局が編成され、イギリス人画家、[[エジプト学]]研究者ヘンリー・ソルト ([[:en:Henry Salt (Egyptologist)]]) やイタリア人古美術品収集家ベルナルディーノ・ドロヴェッティ ([[:en:Bernardino Drovetti]]) らのコレクションから、7,000点以上の古代エジプト美術品を購入している。ただし、この時代に追加された美術品の数よりも、[[王権]]を回復するためという名目でルーヴル美術館からヴェルサイユ宮殿へと持ち出された美術品のほうが多かった。1848年に[[フランス第二共和政|第二共和制]]が成立すると、共和政府は美術品の修復費用として200万フランを供出し、さらに美術品の展示場所である「アポロン・ギャラリー ({{lang|fr|Galerie d'Apollon}})」、「サロン・カレ ({{lang|fr|Salon Carré}})」、「大展示室 ({{lang|fr|Grande Galérie}})」の完成を推進した<ref name="Mignot 52"/>。1858年に[[フランス第二帝政]]が成立し、フランス皇帝となった[[ナポレオン3世]]は、1861年に641点の絵画、[[古代ギリシア]]の[[金貨]]、ジャンピエトロ・カンパーナ[[侯爵]]の美術品コレクション ([[:en:Campana collection]]) 由来の古美術品など、11,835点の美術品を購入した。1852年から1870年にわたるフランス第二帝政下でフランス経済は拡大し、ルーヴル美術館は1870年までに20,000点にのぼる美術品を新たに収蔵している。また、「花の展示室 ([[:en:Pavillon de Flore]])」と「大展示室」が、建築家ルイ・ヴィスコンティとヘクター・ルフェル ([[:en:Hector Lefuel]]) によって改装されたのもこの時期である<ref name="Mignot 52">Mignot,&nbsp;pp.&nbsp;52–54</ref>。
 
==== 第三共和制期と世界大戦期 ====
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[[フランス第三共和政]]の時代にルーヴル美術館に新たに収蔵された美術品は、遺贈、寄贈によるものが多かった。アンゲラン・カルトン ([[:en:Enguerrand Quarton]]) 作といわれる、[[15世紀]]の[[油彩画]]『ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンのピエタ』は「ルーヴル友の会 ({{lang|fr|Société des Amis du Louvre}})」が寄贈したもので、1863年に発掘された古代ギリシア彫刻『[[サモトラケのニケ]]』は、同年にルーヴル美術館へと収められたものである。『サモトラケのニケ』は、頭部、左腕が存在しないなどのひどい損傷があるが、1884年の展示以来、ルーヴル美術館が誇る主要な古代彫刻となっている<ref name="Mignot 70"/>。1869年に美術品収集家の医者ルイ・ラ・カズ ([[:en:Louis La Caze]]) が遺贈した583点の美術品からなる「ラ・カズ・コレクション (Collection La Caze)」には、[[ロココ|ロココ期]]のフランス人画家[[ジャン・シメオン・シャルダン|シャルダン]]、[[ジャン・オノレ・フラゴナール|フラゴナール]]らの絵画が含まれており、その他ラ・カズ・コレクション由来の著名な作品として、[[バロック絵画|バロック期]]のオランダ人画家[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]の『[[ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴]]』、ロココ期のフランス人画家[[アントワーヌ・ヴァトー|ヴァトー]]の『ピエロ(旧称『ジル』)』などがある<ref name="Mignot 70">Mignot,&nbsp;pp.&nbsp;70–71</ref>。
 
ルーヴル美術館の拡大は、[[第一次世界大戦]]後ゆるやかになっていき、重要な作品の購入はほとんどなされていない。例外といえる作品として、[[バロック美術]]期のフランス人[[ジョルジュ・ド・ラ・トゥール|ラ・トゥール]]の『聖トマス』と、遺贈された大規模なコレクションとして、1935年に[[エドモンド・ベンジャミン・ロスチャイルド]]が遺贈した、4,000点の版画([[エングレービング]])、3,000点の絵画、500点の装飾本がげられる<ref name="Nave"/>。
 
[[第二次世界大戦]]時には、多くの美術品がルーヴル美術館から避難した。[[第二次世界大戦]]直前にドイツ軍が[[チェコ]]の[[ズデーテン地方]]を併合したときには、『[[モナ・リザ]]』などの重要な作品が、[[ロワール=エ=シェール県|ロワール=エ=シェール]]の[[シャンボール城]]へと移された。1939年後半に第二次世界大戦が勃発すると、『サモトラケのニケ』や『[[ミロのヴィーナス]]』といった重要な彫刻作品が[[アンドル県|アンドル]]のヴァランセ城 ([[:en:Château de Valençay]]) へと移されている<ref>Alan Riding, ''And the Show Went On: Cultural Life in Nazi-Occupied Paris''. Alfred A Knopf, New York: 2010. p34.</ref>。所蔵美術品の梱包に2日かけ、1939年8月27日に一団のトラックがルーヴル美術館を離れた。12月28日までには、あまりに巨大で重量がかさむ作品と「[[地下室]]に所蔵されていた重要ではない絵画作品」を除いて、主要な作品はすべてルーヴル美術館から姿を消している<ref name="Battle 23">Simon,&nbsp;p.&nbsp;23{{who|date=July 2011}}</ref>。1945年初頭、それまで[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]に占拠されていたフランスが解放されると、各地に分散していた美術品が元通りルーヴル美術館へと戻されていった<ref>Simon,&nbsp;p.&nbsp;177</ref>。
 
==== 大ルーヴル計画とルーヴル・ピラミッド ====
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ルーヴル美術館には、380,000点以上の収蔵品がある。そのうちおよそ35,000点が8部門に分かれて展示されており、常設展示室の総面積は60,600平方メートル以上となっている<ref>{{cite web | title = Œuvres | publisher=Musée du Louvre | url = http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/alaune.jsp?bmLocale=fr_FR | accessdate =27 April 2008 }}</ref>。ルーヴル美術館に展示されているのは、彫刻、工芸品、絵画、[[ドローイング]]、古代美術品などである<ref name="Nave"/>。世界で最も入場者数の多い美術館・博物館であり、一日平均15,000人の入場者数のうち約65パーセントが外国人観光客となっている<ref name="Biz"/><ref name="BBC"/>。
 
イタリア人建築家マリオ・ベッリーニ ([[:en:Mario Bellini]]) とルディ・リキオッティが国際コンペに勝ち残り、両者の設計による、イスラム美術品を展示する3,000平方メートル<ref>Gareth Harris (13 September 2012), [http://www.ft.com/cms/s/2/ad9c2ff2-f5bf-11e1-bf76-00144feabdc0.html#axzz26xYVPBmB Islamic art, covered] ''Financial Times''.</ref>の新たなギャラリーが2012年に開館した。当初2009年の開館が期待されていたこのギャラリーは、美術館南のドゥノン翼中央にある[[新古典主義建築|新古典様式]]の「ヴィスコンティの中庭」に位置する二階建ての建物で、天頂が金色の起伏ある[[屋根]]と、蜘蛛の巣のように張り巡らされる9,000本近い鉄管で構成された内装を持っている<ref>Carol Vogel (19 September 2012), [http://www.nytimes.com/2012/09/20/arts/design/the-louvres-new-islamic-galleries-bring-riches-to-light.html The Louvre’s New Islamic Galleries Bring Riches to Light] ''New York Times''.</ref>。このギャラリーは、1989年に設置されたルーヴル・ピラミッド以来、21世紀に入って最初の大きな建造物となっている
 
==== 運営 ====
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ルーヴル美術館は国立の美術館ではあるが、1990年代からその独立性を強めつつあり<ref name="BBC">{{Cite news|title=New Boss at Louvre's helm|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/1249145.stm|work=BBC News |accessdate=25 September 2008 |date = 17 June 2002}}</ref><ref name="Sacre"/><ref name="LAtimes"/><ref>{{cite web|title=Louvre, Organization Chart|work=Louvre.fr Official Site|url=http://www.louvre.fr/llv/musee/organigramme.jsp|accessdate=24 May 2008}}</ref>、2003年以降は政府から運営予算を捻出するための独自基金を創設することが求められている<ref name="LAtimes">{{cite news |last = Baum | first = Geraldine |url=http://articles.latimes.com/2006/may/14/entertainment/ca-louvre14 |title=Cracking the Louvre's code&nbsp;— Los Angeles Times |date = 14 May 2006 |work=Los Angeles Times|accessdate=25 September 2008}}</ref>。2006年には、全予算のうち国が負担する割合がそれまでの75パーセントから62パーセントまで低下した。2003年に出版された[[小説]]『[[ダ・ヴィンチ・コード]]』をもとにした、2006年の同名の[[映画]]『[[ダ・ヴィンチ・コード (映画)|ダ・ヴィンチ・コード]]』制作時に撮影場所としてギャラリーを提供し、250万[[ドル]]の収入を得たこともあった<ref>{{cite web |last = Matlack | first = Carol |url=http://www.spiegel.de/international/business/0,1518,568466,00.html |title= The Business of Art: Welcome to The Louvre Inc. |date = 28 July 2008 |work=Der Spiegel Online |accessdate=25 September 2008}}</ref><ref>Lunn, p. 137</ref>。2008年には、年間予算3億5000万ドルのうち国が負担するのはおよそ半分の1億8000万ドルとなり、残りは[[寄付金]]と入場チケットの売上金でまかなわれた<ref name="Sacre">{{cite news |last = Gumbel | first = Peter |url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1828324-1,00.html |title=Sacre Bleu! It's the Louvre Inc.|work=Time Magazine | date = 31 July 2008 |accessdate=25 September 2008}}</ref>。
 
前ルーヴル美術館長ピエール・ローゼンベール ([[:en:Pierre Rosenberg]]) の後を継いで、2001年からアンリ・ロワレット ([[:en:Henri Loyrette]]) が館長となった。ロワレットはそれまでの館長とは異なり、所蔵美術作品の貸し出しに積極的な方針をとっている<ref name="BBC"/><ref name="LAtimes"/>。2006年に、1,300点の作品が他施設に貸し出され、その貸出料金が新たな美術作品の購入資金に充てられた。2006年から2009年には、[[アメリカ合衆国|米国]][[ジョージア州]][[アトランタ]]の[[ハイ美術館]]から作品の貸出料金として690万ドルを得て、作品の修復費用として使われている<ref name="LAtimes"/>。2012年にはルーヴル美術館と[[サンフランシスコ美術館]]との間で、5年間の展示、出版、教育、保存、教育に関する協定が結ばれた<ref>Scarlet Cheng (15 November 2012), [http://theartnewspaper.com/articles/Louvre+and+San+Francisco+museums+sign+five-year+deal/28063 Louvre and San Francisco museums sign five-year deal] ''The Art Newspaper''.</ref>。2012年に9850万[[ユーロ]]をかけてイスラム美術ギャラリーが拡張されたが、そのうち3100万ユーロが国の基金から、1700万ユーロが[[サウジアラビア]]王族のアミラ・タウィールが創設した基金であるワリード・ビン・タタール基金 ([[:en:Alwaleed Bin Talal Foundation]]) から供出された。その他、[[アゼルバイジャン|アゼルバイジャン共和国]]、[[クウェート]]の[[サバーハ家|首長]]、[[オマーン]]の[[スルターン|国王]]、[[モロッコ]]の[[ムハンマド6世 (モロッコ王)|国王]]から、合計2600万ユーロの寄付が集まった。また、2012年にルーヴル美術館の別館である[[アラブ首長国連邦]]のルーヴル・アブダビ ([[:en:Louvre Abu Dhabi]]) 建設計画が発表されたときには、開設後に30年間「ルーヴル」という名称を使用する料金として、4億ユーロが支払われたといわれている<ref>Gareth Harris (13 September 2012), [http://www.ft.com/cms/s/2/ad9c2ff2-f5bf-11e1-bf76-00144feabdc0.html#axzz26xYVPBmB Islamic art, covered] ''Financial Times''.</ref>。ロワレットは、コレクションの弱い分野を補完するために、他施設への所蔵作品の貸与料金と「入場料収益の20%を、毎年の作品購入資金に充てる」としている<ref name="LAtimes"/>。また、ロワレットは経営改革にも熱心で、それまでルーヴル美術館の数あるギャラリーの開館率が80%程度だったのに対して、90%まで開館率を向上させた。そのほか、開館時間の延長、毎週金曜夜の入館料無料化、作品購入予算の450万ドルから3600万ドルへの引き上げなどの業績を挙げている<ref name="Sacre"/><ref name="LAtimes"/>。
 
==== ルーヴル別館 ====
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===== ルーヴル・アブダビ =====
{{Main|[[:en:Louvre Abu Dhabi]]}}
2007年にルーヴル美術館は、2012年までに[[アラブ首長国連邦]]の[[アブダビ]]にルーヴル美術館の別館を建設すると発表した。しかしながら建設は遅れており、開館は早くても2015年になるといわれている<ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/2012/09/27/world/middleeast/27iht-m27-gulf-louvre.html?_r=0|title=After a Sputtering Start, the Louvre Abu Dhabi Project Gathers Pace |author=SARA HAMDAN|accessdate=10 January 2013 |date=September 26, 2012 |work=nytimes |publisher=The New York Times Company}}</ref>。フランスの[[文化・コミュニケーション省|文化・コミュニケーション]]相ルノー・ドヌデュー・ド・ヴァーブルと、アブダビ首長一族のシーク・スルターン・ビン・アール=ナヒヤーンとの間に、新美術館に「ルーヴル」の名称を冠することを30年間許可する契約が結ばれ、8億3200万の費用でアブダビに新たな美術館が創設されることとなった。[[ルーヴル・アブダビ]]の設計者はフランス人建築家[[ジャン・ヌーヴェル]]で、ブロ・ハッポルド社 ([[:en:Buro Happold]]) が建設を担当し、24,000平方メートルの建設予定地に[[空飛ぶ円盤]]のようなドーム状の屋根を持つ建物となる予定である。フランス政府はルーヴル・アブダビとの間に、200点から300点の美術品を10年交代周期で貸し出す契約、専門的知識および助言を提供する契約、15年間にわたって年4回の展示会を開催する契約を締結している。ルーヴル・アブダビに展示される美術品は、ルーヴル美術館のほか、[[ポンピドゥー・センター]]、[[オルセー美術館]]、ヴェルサイユ宮殿、[[ギメ東洋美術館|ギメ美術館]]、[[ロダン美術館 (パリ)|ロダン美術館]]、[[ケ・ブランリ美術館]]など、フランスの複数の美術館から集められる予定である<ref>{{cite news |url=http://www.nytimes.com/2007/03/07/arts/design/07louv.html|title=The Louvre's Art: Priceless. The Louvre's Name: Expensive.|work=The New York Times |date=6 March 2007|accessdate=24 April 2008 | first=Alan | last=Riding}}</ref>。
 
==== 論争 ====
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According to [[Serge Klarsfeld]], since the now complete and constant publicity which the artworks got in 1996, the majority of the French Jewish community is nevertheless in favour of the return to the normal French civil rule of ''prescription acquisitive'' of any unclaimed good after another long period of time and consequently to their ultimate integration into the common French heritage instead of their transfer to foreign institutions like during World War II. -->
[[File:Louvre 122006 019.jpg|thumb|[[デンデラ神殿複合体|デンデラ神殿]]の天井を飾っていた浮彫彫刻『デンデラの黄道帯』。[[エジプト]]からの返還要求に、ルーヴル美術館は応じていない。]]
ナポレオン1世はヨーロッパ諸国に対して軍事行動を起こし、緒戦は勝利した。イタリアでは終戦条約に伴う賠償として美術品を収奪、[[北ヨーロッパ]]では[[戦利品]]として美術品を略奪エジプトでは発掘による出土品として古代美術品を手に入れた。ただし、エジプトの古代美術品の大部分は、1801年の[[ナイルの海戦]]で[[イギリス海軍]]が勝利し、フランスから戦利品として没収している。『[[ロゼッタ・ストーン]]』など、これらのエジプト古代美術品は1803年に[[大英博物館]]に収蔵されが、エジプトからイギリスに対して[[文化財返還問題|返還要求]]が出されている。エジプトの文化財輸出禁止法が制定された1835年以前である1821年にルーヴル美術館に収蔵された、[[デンデラ神殿複合体|デンデラ神殿]]の天井を飾っていた浮彫彫刻『デンデラの黄道帯 ([[:en:Dendera zodiac]])』も、エジプトからフランスへ返還要求がなされている。しかしながらルーヴル美術館は、入手は合法なものであるとしてエジプトからの返還要求を拒否している。文化、教育などを担当する[[国際連合]]の機関[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]には「文化財の原保有国への返還促進政府間委員会」が存在し、ルーヴル美術館もこの活動に参加している<ref>Merryman, abstract</ref>。この活動の一環として、2009年にルーヴル美術館から5点の[[フレスコ画]]断片がエジプトへ返還された。これらの断片は数年前にルーヴル美術館が2箇所のプライベート・コレクションから正当な形で購入した美術品だったが、「フランス博物館コレクション学術委員会 ([[:en:Commission scientifique nationale des collections des musées de France]])」が「価値が低い (déclassement)」と評価したものだった<ref>{{cite web|url=http://tempsreel.nouvelobs.com/actualite/culture/20091009.OBS4116/le-louvre-se-dit-satisfait-de-la-restitution-des-fresques-egyptiennes.html |title=Le Louvre se dit "satisfait" de la restitution des fresques égyptiennes - Culture - Nouvelobs.com |publisher=Tempsreel.nouvelobs.com |date= |accessdate=21 August 2011}}</ref>。
 
== コレクション ==
ルーヴル美術館には380,000点以上の美術品が収蔵されており、そのうち35,000点ほどが8部門(「古代エジプト美術部門」「古代オリエント美術部門」「古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門」「イスラム美術部門」「彫刻部門」「工芸品部門」「絵画部門」「素描・版画部門」の8部門に分類されて展示されている<ref>{{cite web |url=http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/alaune.jsp?bmLocale=en | title = 35,000 works of art | publisher=Musée du Louvre| accessdate=27 September 2008}}</ref><ref name="louvre.jp-Dept" />。
 
=== 古代エジプト美術部門 ===
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古代エジプト美術部門には、[[ナイル川]]流域に発展した文明の、紀元前4,000年から4世紀にわたる<ref name="Nave 42"/>50,000点以上の美術品が所蔵されている<ref name="Mignot 74"/>。エジプト美術コレクションとしては世界最大規模であり、[[古代エジプト|古代]]、[[エジプト中王国|中王国時代]]、[[エジプト新王国|新王国時代]]、初期[[キリスト教]]時代([[コプト]]美術 ([[:en:Coptic art]]))、[[アエギュプトゥス|ローマ属州時代]]、[[プトレマイオス朝|プトレマイオス王国時代]]、[[東ローマ帝国|ビザンティン帝国時代]]の美術品が網羅されている<ref name="Nave 42">Nave,&nbsp;pp.42–43</ref>。この部局の原点は王室コレクションまで遡ることができるが、ナポレオン1世の1798年の[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]でコレクションが大きく発展したものである。このときのエジプト遠征には、後に初代ルーヴル美術館館長となるドミニク・ヴィヴァン ([[:en:Dominique Vivant]]) も同行していた<ref name="Mignot 74">Mignot,&nbsp;pp&nbsp;76,&nbsp;77</ref>。その後、[[ジャン=フランソワ・シャンポリオン]]が『ロゼッタ・ストーン』を解読すると、フランス王[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]が古代エジプト専門部局の創設を命じた。シャンポリオンは、エドム・アントワーヌ・デュラン、ヘンリー・ソルト ([[:en:Henry Salt (Egyptologist)]])、ベルナルディーノ・ドロヴェッティ ([[:en:Bernardino Drovetti]]) が収集したコレクションの購入を進言し、これらのコレクションから7,000点あまりのエジプト美術品が所蔵品に加えられた。さらに、[[エジプト考古学博物館]]の基礎を作ることになるフランス人[[考古学者]][[オギュスト・マリエット]]によって、エジプト美術品の所蔵数は増大していった。マリエットは、エジプトの[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]で発掘調査を行い、『書記座像 ([[:en:The Seated Scribe]])』などの出土品を、ルーヴル美術館へと送りだした<ref name="Mignot 74"/><ref name="Egyptian"/>。
 
エジプト美術品は20以上の展示室で公開されている。美術品の他に、[[パピルス]]の[[巻物]]、[[ミイラ]]、[[工具]]、[[衣服]]、[[宝石]]、遊戯盤、[[楽器]]、[[武器]]なども展示されている<ref name="Mignot 74"/><ref name="Nave 42"/>。古代エジプトの所蔵品では『ゲベル・エル・アラクの[[短刀]] ([[:en:Gebel el-Arak Knife]])』『書記坐像』『[[ジェドエフラー]]王[[スフィンクス]]の頭部』などが有名である。中王国時代の美術品は「金細工と彫像」で知られ、それまでの写実的表現から理想化表現へと移行していった。この様式の好例として、片岩製の『アメンエムハトアンクの彫像』、木製の『供物を運ぶ女性』などがある。新王国時代、初期キリスト教時代では、女神[[ネフティス]]の彫像や、女神[[ハトホル]]の石灰岩彫刻などが、この時代の様式をよく表している<ref name="Nave 42"/><ref name="Egyptian">{{cite web |url=http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/presentation_departement.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673211727&CURRENT_LLV_FICHE%3C%3Ecnt_id=10134198673211727&CURRENT_LLV_DEP%3C%3Efolder_id=1408474395181077&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500768&bmLocale=en | publisher=Musée du Louvre | title = Egyptian Antiquities| accessdate=30 April 2008}}</ref>。
 
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File:Stele of Vultures detail 01-transparent.png|『禿げ鷹の碑』、[[ラガシュ]]王国、紀元前2660年 - 2330年頃
File:Ebish-Il Louvre AO17551.jpg|『[[エビフ・イルの像|代官エビフ・イル像]]』、[[アラバスター]]製、[[マリ (シリア)|マリ王国]]、紀元前2500年頃
File:Stele Naram Sim Louvre Sb4.jpg|[[ナラム・シン]]の戦勝碑、[[アッカド]]時代、紀元前2254年 - 2218年
File:Ibex rhyton AO3115.jpg|[[アイベックス]]の角でできた角杯、[[ペルシア帝国|古代ペルシア]]、紀元前600年 - 300年
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=== 古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門 ===
[[File:Nike of Samothrake Louvre Ma2369 n2.jpg|left|thumb|大理石彫刻『[[サモトラケのニケ]]』。紀元前190年頃]]
古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門は、[[新石器時代]]から[[6世紀]]までの、[[地中海]]沿岸地方の美術品を収蔵している<ref name="GreekER">{{cite web |url=http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/presentation_departement.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673211729&CURRENT_LLV_FICHE%3C%3Ecnt_id=10134198673211729&CURRENT_LLV_DEP%3C%3Efolder_id=1408474395181112&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500768&bmLocale=en |title=Greek, Etruscan, and Roman Antiquities | publisher=Musée du Louvre |accessdate =30 April 2008}}</ref>。時代区分としては[[キクラデス文明]]から[[ローマ帝国]]衰退までとなる。古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門は、ルーヴル美術館でも最古の部局の一つで、所蔵品が王室コレクションだった時代まで遡ることができ、フランス王フランソワ1世が購入した美術品も含まれている<ref name="Nave 42"/><ref name="Mignot 155">Mignot,&nbsp;pp.&nbsp;155–58</ref>。コレクション初期には『[[ミロのヴィーナス]]』や『ベルヴェデーレのアポロン ([[:en:Apollo Belvedere]])』のような、[[大理石]]彫刻の収集に重点が置かれていた。『ベルヴェデーレのアポロン』は、ナポレオン1世がヴァチカンから押収したものだったが、ナポレオンが失脚した1815年にヴァチカンへと返還されている。19世紀になってから、デュラン・コレクションや[[フランス国立図書館]]から、『ボルゲーゼの壺 ([[:en:Borghese Vase]])』のような大理石彫刻や銅像などを購入している<ref name="Pocket"/><ref name="GreekER"/>。古代ギリシア・[[アルカイク期]]の収蔵品には、宝飾品、『オーセールの婦人 ([[:en:Lady of Auxerre]])』(紀元前640年頃)や『サモスのヘラ』(紀元前570年 - 560年頃)のような石灰岩彫刻がある<ref name="Nave 42"/><ref>Hannan,&nbsp;p.252</ref>。紀元前4世紀以降の収蔵品は、『ボルゲーゼの[[剣闘士]] ([[:en:Borghese Gladiator]])』に代表されるような、人体を写実的に再現した彫刻が多くなっている。また、ルーヴル美術館には『[[サモトラケのニケ]]』(紀元前190年頃)や『[[ミロのヴィーナス]]』のような、古代美術の象徴ともいえる[[ヘレニズム|ヘレニズム期]]の名作が所蔵されている<ref name="Mignot 155"/>。
 
長大なカンパーナ・ギャラリーには、1,000点を超えるギリシア[[陶器]]の一大コレクションが展示されている。セーヌ川沿いのドゥノン翼の各展示室には数多くの古代ローマ彫刻が展示されている<ref name="GreekER"/>。肖像彫刻のコレクションも有名で、[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ|アグリッパ]]やマルクス・アンニウス・ウェルスらの[[大理石]]彫刻、『ピオンビーノのアポロン ([[:en:Apollo of Piombino]])』などの[[青銅|ブロンズ]]像が知られている。
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File:Borghese Gladiator Louvre Ma 527 n1.jpg|『ボルゲーゼの[[剣闘士]]』、紀元前100年頃(ギリシア)
File:Apollon de Piombino.jpg|『ピオンビーノのアポロン』、紀元前1世紀(エトルリア)
File:Ares Borghese Louvre Ma 866 n01.jpg|thumb|『ボルゲーゼの[[マールス|アレス]]』、紀元前430年頃の[[アルカメネス (彫刻家)|アルカメネス]]原作、紀元前1世紀頃のローマン・コピー
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=== イスラム美術部門 ===
[[File:Casket ivory Louvre UCAD4417.jpg|thumb|象牙と銀の宝石箱、966年。]]
2003年に創設されたイスラム美術部門は、ルーヴル美術館ではもっとも新しい部門で「13世紀にわたる三つの大陸」の美術品が収蔵されている<ref name="Islam">{{cite web |url=http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/presentation_departement.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673211731&CURRENT_LLV_FICHE%3C%3Ecnt_id=10134198673211731&CURRENT_LLV_DEP%3C%3Efolder_id=1408474395181076&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500768&bmLocale=en |title=Islamic Art | publisher=Musée du Louvre |accessdate =30 April 2008}}</ref>。コレクションには、[[陶磁器]]、ガラス工芸品、金属工芸品、木製品、[[象牙]]工芸品、[[絨毯]]、[[織物]]、[[ミニアチュール]]など、5,000点以上の美術品が含まれている<ref name="Ahlund">Ahlund, p. 24</ref>。イスラム美術部門は元々もともと工芸部門の一部だったが、2003年に独立した部局として新設された。[[アル=アンダルス|アンダルシア]]由来の『アル=ムギラの銘のある小箱』(968年)と呼ばれる[[象牙]]の筒状の箱や、『サン・ルイの洗礼盤』([[13世紀]]から[[14世紀]]頃、[[マムルーク朝]])と呼ばれる金属製の[[ボウル]]、イラン由来の『サン=ジョスの屍衣』などが有名な収蔵品となっている<ref name="Mignot 119">Mignot,&nbsp;pp.&nbsp;119–21</ref><ref name="Islam"/>。他に、[[ペルシア語]]で書かれたフェルドウスィーの『[[シャー・ナーメ]]』3ページ分なども有名である<ref name="Ahlund"/>。
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=== 彫刻部門 ===
[[File:African Art, Yombe sculpture, Louvre.jpg|thumb|ヨンベ語族の彫刻、19世紀。]]
彫刻部門には、古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門に属さない、1850年以前の彫刻が収蔵されている<ref name="Sculpture">{{cite web |url=http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/presentation_departement.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673211734&CURRENT_LLV_FICHE%3C%3Ecnt_id=10134198673211734&CURRENT_LLV_DEP%3C%3Efolder_id=1408474395181113&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500768&bmLocale=en |title=Sculptures | publisher=Musée du Louvre |accessdate=23 April 2008}}</ref>。ルーヴル美術館が、いまだルーヴル宮殿として使用されていた時代から彫刻の収集は開始されていたが、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]の『瀕死の[[奴隷]]』と『抵抗する奴隷』を除いて、1824年までは古代彫刻しか公開されていなかった<ref name="Mignot 397">Mignot,&nbsp;397–401</ref>。ルーヴル美術館開設当時には100点ほどの彫刻しかなく、他の王室コレクションの彫刻の多くはヴェルサイユ宮殿に移設されていた。その後も彫刻コレクションはほとんど増加することはなかったが、1847年にレオン・ラボルデが彫刻部門の責任者に任命されると、コレクションの数は徐々に増えていった。ラボルデは中世の彫刻を収集する部門を設置し、『キルデベルデ1世像』『スタンガの扉』などの彫像、彫刻を購入していった<ref name="Mignot 397"/>。彫刻部門は、もともとは工芸部門の一部局だったが、フランス美術品のコレクションを推進していた館長ルイ・クラジョが、1871年に自治裁量権を与えている<ref name="Sculpture"/><ref name="Mignot 397"/>。1986年に1850年以降の彫刻は、新設された[[オルセー美術館]]へと移された。「大ルーヴル計画」によって、彫刻部門の収蔵品の展示場所が、フランス彫刻を展示するリシュリュー翼と、フランス以外の彫刻を展示するドゥノン翼に分けられた<ref name="Sculpture"/>。
 
[[ロマネスク|ロマネスク様式]]のフランス彫刻には『獅子の穴の中のダニエル』([[11世紀]])や『[[オーヴェルニュ]]の[[聖母マリア|聖母]]』([[12世紀]])などが所蔵されている。[[16世紀]]には[[ルネサンス]]の抑制表現の影響がフランス彫刻にも表れ始め、ジャン・グジョン ([[:en:Jean Goujon]]) の浮彫や、ジェルマン・ピロン ([[:en:Germain Pilon]]) の『[[十字架]]降下』や『キリスト復活』などにその影響を見ることができる。[[17世紀]]から[[18世紀]]のフランス彫刻として、エティエンヌ=モーリス・ファルコネ ([[:en:Étienne Maurice Falconet]]) の『水浴する女』や、フランソワ・アンギエ ([[:en:François Anguier]]) の『オベリスク』などがある。[[新古典主義|新古典様式]]の彫刻には、[[アントニオ・カノーヴァ]]の『[[クピードー|キューピッド]]の口づけに目覚めたプシュケ』(1793年)がある<ref name="Mignot 397"/>。
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=== 工芸品部門 ===
[[File:Saint Blaise Louvre OAR504.jpg|thumb|[[ブラシウス|聖ブラシウス]]を描いた、13世紀フランスの[[ステンドグラス]]]]
工芸品部門には、中世から[[19世紀]]半ばまでの美術工芸品が収蔵されている。もとも元々とは彫刻部門の一部局で、フランス王室コレクションと、歴代フランス王家の墓所である[[サン=ドニ大聖堂]]からフランス革命時に持ち出された作品が基礎となっている<ref name="Nave 130"/><ref name="Mignot 451">Mignot,&nbsp;pp.&nbsp;451–54</ref>。これらの収蔵品の中でもっとも重要なものに、ピエトラ・ドゥーラ(宝石や貴石をりばめた絵画のような工芸品、([[:en:pietre dure]]))の[[壺]]と[[青銅器]]がげられる。その後、1825年に購入したデュラン・コレクションから「陶磁器、エナメル細工、[[ステンドグラス]]」がもたらされ、さらに1828年に芸術家ピエール・レヴォワルからおよそ800点の作品が寄贈された。[[ロマン主義]]の潮流がルネサンスと中世の芸術に再び光を当て、ソヴァジョという人物が1,500点にのぼる中世工芸品と、[[ファイアンス焼き|ファイアンス陶磁器]]を遺贈した。1862年にはカンパーナ侯爵のコレクションから、[[15世紀]]から16世紀に制作されたものを中心として、金細工、[[マヨリカ焼き|マヨルカ陶磁器]]などが追加されている<ref name="Mignot 451"/><ref>{{cite web |url=http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/presentation_departement.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673211732&CURRENT_LLV_FICHE%3C%3Ecnt_id=10134198673211732&CURRENT_LLV_DEP%3C%3Efolder_id=1408474395181114&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500768&bmLocale=en |title=Decorative Arts | publisher=Musée du Louvre |accessdate=30 April 2008}}</ref>。
 
工芸品部門の収蔵品はリシュリュー翼2階とドゥノン翼のアポロン・ギャラリーに展示されている。アポロン・ギャラリーの名付け親は画家のシャルル・ル・ブランで、太陽王ルイ14世からこのギャラリーを太陽をテーマとした装飾を命じられた人物である。中世の工芸品コレクションには、ルイ14世が[[戴冠式]]に使用した[[西洋の冠|王冠]]や、[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]の[[王笏]]、『斑岩の壺』などがある<ref>Lasko,&nbsp;p.&nbsp;242</ref>。ルネサンス期の工芸品コレクションには、[[ジャンボローニャ]]が制作した[[ブロンズ像]]『ネッソスとデイアネイラ』、[[タペストリー]]『マクシミリアンの狩猟のタピスリー』などがある<ref name="Nave 130">Nave,&nbsp;p&nbsp;130</ref>。ルネサンス以降の時代のコレクションで有名なものとして、[[ポンパドゥール夫人]]が所有していた[[セーヴル焼|セーヴル磁器]]のコレクションや、ナポレオン3世のアパルトマンなどがげられる<ref name="Nave 130"/>。
 
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File:Diptych Barberini Louvre OA3850.JPG|バルベリーニの象牙板(部分)、6世紀前半、[[コンスタンティノープル]]
File:Sceptre de Charles V.jpg|シャルル5世の[[王笏]](部分)
File:Hunt of Maximilian, September, Louvre.jpg|『マクシミリアンの狩猟のタピスリー、9月』、1531年 - 1533年
File:Room of the Louvre museum.jpg|ナポレオン3世のアパルトマン
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=== 絵画部門 ===
[[File:Mona Lisa, by Leonardo da Vinci, from C2RMF retouched.jpg|thumb|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の『[[モナ・リザ]]』。おそらくレオナルドがフランソワ1世の宮廷に滞在していたときに現在のかたちとなった。]]
絵画部門には、7,500点を超える絵画作品が収蔵されている<ref>{{fr}} Pierre Rosenberg, ''Dictionnaire amoureux du Louvre'', Plon, Paris, 2007, p. 229.</ref>。13世紀から1848年までの作品がコレクションされており、12名の[[キュレーター]]がその展示に責任を負っている。絵画作品のうち、およそ3分の2がフランス人画家の作品で、残りの絵画のうち1,200点以上が北方ヨーロッパ([[アルプス山脈|アルプス]]以北のヨーロッパ)の作品となっている。イタリア絵画はフランソワ1世とルイ14世のコレクション由来の作品が大部分となっており、その他のイタリア絵画は未返還になっているナポレオン1世の収奪絵画が多く、少ないながら正式に購入した作品も存在する<ref>Hannan,&nbsp;p.&nbsp;262</ref><ref name="Mignot 199">Mignot,&nbsp;pp. 199–201,&nbsp;272–73,&nbsp;333–35</ref>。イタリア絵画のコレクションはフランソワ1世が始めたもので、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]<ref>[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]の『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』には、ミケランジェロの『レダと白鳥』(現存せず)は、フランソワ1世が購入したと書かれている。</ref>らルネサンス期の[[オールド・マスター|巨匠]]の作品を購入し、後に[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]を自身の宮廷に迎えた<ref name="Mona"/><ref name="Paintings">{{cite web |url=http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/presentation_departement.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673211733&CURRENT_LLV_FICHE%3C%3Ecnt_id=10134198673211733&CURRENT_LLV_DEP%3C%3Efolder_id=1408474395181115&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500768&bmLocale=en |title=Paintings | publisher=Musée du Louvre |accessdate=23 April 2008}}</ref>。フランス革命で没収、国有財産化されたこれらの王室絵画コレクションが、ルーヴル美術館の中核となった。1986年に、それまで[[鉄道駅]]舎として使用されていた[[ミュゼ・ドルセー駅|ドルセー駅]]が[[オルセー美術館]](ミュゼ・ドルセー)として生まれ変わり、ルーヴル美術館の絵画コレクションのうち[[1848年革命|1848年]]以降に完成した絵画作品がオルセー美術館に移された(一部の[[印象派]]絵画など例外あり)。フランス絵画と北ヨーロッパ絵画はリシュリュー翼に、スペイン絵画とイタリア絵画はドゥノン翼2階に展示されている<ref name="Mignot 199"/>。
 
初期のフランス絵画に、アンゲラン・カルトン ([[:en:Enguerrand Quarton]]) の『アヴィニョンのピエタ ([[:en:Pietà of Villeneuve-lès-Avignon]])』(1455年頃)がある。フランス王[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]の肖像で、作者未詳の『善良王ジャン』(1360年頃)は、古代以降の作品としては、おそらく最古の個人肖像画といわれている<ref>Mignot,&nbsp;p. 201</ref>。その他フランス絵画には、[[イアサント・リゴー|リゴー]]の『ルイ14世』、[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィド]]の『ナポレオン1世の戴冠』、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]の『[[民衆を導く自由の女神]]』などがある。
 
[[アルプス山脈|アルプス]]以北の[[北方絵画]]には、[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]の『[[レースを編む女]]』や『[[天文学者 (フェルメールの絵画)|天文学者]]』、[[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]]の『カラスのいる木 ([[:en:The Tree of Crows]])』、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]の『エマオの晩餐』『[[ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴]]』『屠殺された雄牛』などがある。
 
イタリア絵画では、特に[[ルネサンス期のイタリア絵画|ルネサンス期]]のコレクションに重要な作品が多い。ルネサンス初期の画家[[アンドレア・マンテーニャ|マンテーニャ]]と[[ジョヴァンニ・ベリーニ|ベッリーニ]]の『キリスト磔刑』には[[写実主義]]と詳細表現の萌芽がみられ「精神世界を表現した重要な場面が描かれている」とされている<ref>Hannan,&nbsp;p. 267</ref>。[[盛期ルネサンス|ルネサンス盛期]]の絵画コレクションには、レオナルド・ダ・ヴィンチの『[[モナ・リザ]]』、『[[聖アンナと聖母子]]』、『洗礼者ヨハネ ([[:en:St. John the Baptist (Leonardo))]]』、『[[岩窟の聖母]]』、[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]の『田園の合奏』、『キリストの埋葬』、『荊冠のキリスト』などが所蔵されている。バロック期の絵画コレクションには[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジョ]]の『女占い師 ([[:en:The Fortune Teller (Caravaggio)]])』、『聖母の死 ([[:en:Death of the Virgin (Caravaggio)]])』などが所蔵されている<ref>Mignot,&nbsp;p.&nbsp;378</ref><ref>Hannan,&nbsp;pp.&nbsp;270–278</ref>。
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==== フランス絵画 ====
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File:Meister des Porträts des Jean le Bon 001.jpg|『[[ジャン2世 (フランス王)|善良王ジャン]]』、作者未詳(1350年 - 1360年頃)
File:Meister der Pietà von Avignon 004.jpg|『[[アヴィニョン]]の[[ピエタ]]』、アンゲラン・カルトン(1455年 - 1460年頃)
File:Louis XIV of France.jpg|『[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]』、[[イアサント・リゴー]](1701年)
File:Jacques-Louis David 006.jpg|『[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠|ナポレオン1世の戴冠]]』、[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィド]](1805-1807年頃)
File:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|『[[民衆を導く自由の女神]]』、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]](1830年)
</gallery></center>
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File:Rembrandt Harmensz. van Rijn 016.jpg|『[[ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴]]』、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]](1654年)
File:Johannes Vermeer - The lacemaker (c.1669-1671).jpg|『[[レースを編む女]]』、[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]](1664年)
File:Caspar David Friedrich The Tree of Crows.jpg|『[[カラス]]のいる木』、[[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]](1822年頃)
</gallery></center>
 
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=== 素描・版画部門 ===
素描・版画部門には、[[紙]]を素材とした美術品である、[[デッサン]]、[[パステル]]画、[[ミニアチュール]]、版画、本、[[写本]]、[[書簡]]、[[リトグラフ]]などが収蔵されている<ref name="Mignot 495">Mignot,&nbsp;496</ref><ref name="louvre.jp" />。コレクションの基礎となったのは、8,600点にのぼる王室コレクション ({{lang|fr|Cabinet du Roi}}) で、その後、1806年のフィリポ・バルディヌッチのプライベート・コレクションの遺贈などによって、1,200点ほどの作品が追加、購入されていった<ref name="Pocket"/><ref name="Drawing">{{cite web |url=http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/presentation_departement.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673211728&CURRENT_LLV_FICHE%3C%3Ecnt_id=10134198673211728&CURRENT_LLV_DEP%3C%3Efolder_id=1408474395181116&FOLDER%3C%3Efolder_id=9852723696500768&bmLocale=en |title=Prints and Drawings | publisher=Musée du Louvre |accessdate=23 April 2008}}</ref>。素描・版画部門が創設されたのは1797年8月5日のことで、このときにはアポロン・ギャラリーに415点の作品が展示された。素描・版画部門は3つの部局に分けられている。コレクションの中核をなす王室コレクション、1,400点あまりの王室コレクション由来の銅版画板、そして[[エドモンド・ベンジャミン・ロスチャイルド]]が遺贈した、4,000点の版画([[エングレービング]])、3,000点の絵画、500点の装飾本である<ref name="Nave"/>。2012年現在では、その製作技法、および素材の紙が光に弱いために常設展示はされておらず、特別な閲覧か企画展のときのみに、厳重な環境管理下で公開されている<ref name="Mignot 495"/><ref name="louvre.jp">{{cite web |url=http://www.louvre.fr/jp/departments/%E7%B4%A0%E6%8F%8F%E3%83%BB%E7%89%88%E7%94%BB |title=素描・版画部門 | publisher=ルーヴル美術館 |accessdate=2013-1-11}}</ref>。
 
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== ルーヴル周辺と交通アクセスなど ==
[[File:Louvre Access Map.png|thumb|right|ルーヴル美術館周辺の地図。[[バス停]]留所、[[地下鉄]]路線図、[[駐車場]]が表示されている。]]
ルーヴル美術館はパリ中央部[[1区 (パリ)|第1区]]、セーヌ川右岸に位置する。西隣には、かつてフランス王宮として使用されていた[[テュイルリー宮殿|テュイルリー宮殿跡]]がある。現在もテュイルリー庭園 ([[:en:Tuileries Garden]]) として残っている宮殿の[[庭園]]部分は、1564年にアンリ2世妃[[カトリーヌ・ド・メディシス]]が造園させたもので、1664年に[[アンドレ・ル・ノートル]]が再設計した庭園である。テュイルリー[[庭園]]のガーデン・ハウスは、[[1940年]]から[[1944年]]までナチス・ドイツに収奪されたユダヤ人文化財が収容されていたが、1947年に近現代美術を所蔵する[[ジュ・ド・ポーム国立美術館]]として開館した<ref name="Frommer">Mroue, p.&nbsp;176</ref>。ジュ・ド・ポーム国立美術館と隣接して、[[オランジュリー美術館]]がある。オランジュリー美術館は[[印象派]]と[[ポスト印象派]]の絵画作品が収められており、とくに[[クロード・モネ|モネ]]の『[[睡蓮 (モネ)|睡蓮]]』の連作を所蔵していることで名高い。
 
ルーヴル美術館は、パリの中央部をおよそ8キロメートルにわたって西に貫く、いわゆる「[[パリの歴史軸]]」の起点となっている。ルーヴル美術館中庭を東端に、[[シャンゼリゼ通り]]を経て[[グランダルシュ]]を西端とする。1871年に、[[パリ・コミューン]]鎮圧の混乱でテュイルリー宮殿が焼失し、ルーブル美術館の建物が「[[パリの歴史軸|歴史軸]]」に対してわずかに傾いていることが明らかになった<ref>Rogers, p. 159</ref>。
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== 関連項目 ==
{{Portal|パリ}}
* [[松方コレクション]] (第二次太平洋世界戦争当時にフランスに接収され、未返還のままの日本人の個人資産である松方コレクションの一部を、ルーヴル美術館素描版画室が保有している)
*[[:en:Center for Research and Restoration of Museums of France|Centre de recherche et de restauration des musées de France]]
*[[:en:List of museums in Paris|List of museums in Paris]]
*[[:en:Musée de la mode et du textile|Musée de la mode et du textile]]
*[[ルーブル彫刻美術館]]ルーヴル美術館が公式許可した模刻の姉妹館
 
== 出典、脚注 ==