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== 生涯 ==
幼くして明敏であり、叔父の[[蔡卞]]が自分の
[[政和]]5年([[1115年]])に宣和殿学士が設置され<ref>『宋会要』職官7-10・政和5年4月20日条</ref>、蔡攸が初代の学士に任じられた<ref>朱彧『萍洲可談』</ref>。宣和殿は徽宗が日常活動の場にしていた施設であり、本来は[[宦官]]が直宣和殿に任じられて皇帝に近侍していたが、徽宗が蔡攸を近くに置くために新たに宣和殿学士の官職を設けたのであった。蔡攸は徽宗に近侍することで宮中の情報を父の元にもたらす役目を果たしていたが、政和6年([[1116年]])[[封禅]]を巡る意見対立から、徽宗が高齢の蔡京の通常の出仕を優免することで実質的な権力を剥奪を行うと、蔡攸の政治立場に変化が生じるようになった。政和7年([[1117年]])に宣和殿学士の上に宣和殿大学士が設置されると蔡攸が直ちに昇任され、蔡京が一線を退いた後に親政を志向するようになった徽宗を補佐する立場に転じる事になる。[[宣和]]元年([[1119年]])、宣和殿は[[元号]]と被ると言う理由で保和殿に改称されるが、蔡攸の大学士の地位はそのまま維持されて淮康軍[[節度使]]に任ぜられた。その一方で、復権を図ろうとする父・蔡京や弟たちに対して、蔡攸は徽宗の側近として親政を支える立場からこれと対立するようになった。宣和4年([[1122年]])、当時軍権を握っていた[[童貫]]が河北河東路宣撫使として[[遼]]の都になっていた[[燕京]]遠征に向かった際に、徽宗は[[監軍]]として蔡攸を河北河東路宣撫副使に任じた<ref>『三朝北盟会編』巻56・宣和4年5月9日条</ref>。ところが、地方に派遣される官に就くと中央で皇帝に近侍する保和殿大学士は辞任しなければならなかった。そこで、徽宗は宦官の役職である直保和殿に、文官である蔡攸を強引に任じたのである(宦官は地方に派遣されても中央の兼職を辞める慣例がなかったため、徽宗は直保和殿に任じられた一般官僚も兼務ができると解したのである)。後世、後に[[南宋]]の[[陸游]]がこれを制度の紊乱であると徽宗を非難している<ref>『渭南全集』巻5「条対状三」</ref>。遠征は失敗に終わり、童貫は失脚したものの、蔡攸は副官であったものの監軍に過ぎないとして責任を問われることなく、翌年[[少師]]・領枢密院事に任じられて宰相の末席に列した。
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