「三方楽所」の版間の差分

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[[安土桃山時代]]になると、[[正親町天皇]]・[[後陽成天皇]]などによって[[南都]]や天王寺の楽人の一部に京都移住が命じられるようになり、四散していた京都の楽人も次第に京都へ帰還するようになった。[[江戸幕府]]が成立した[[慶長]]8年([[1603年]])の『禁裏様楽人衆』には三方あわせて24人の名前がみえる。江戸時代初期の三方楽人の経済力は38家合わせても250[[石高|石]]程と貧弱であり、寺社勢力に保護された南都方や天王寺方はともかく、[[公家]]に隷属していた京都方では、生活に困窮していたようである。[[寛文]]5年([[1665年]])の[[徳川家康|家康]]50回忌法要に際して三方楽人57名が江戸に向かい、三方楽所領2000石が給されることになった。三方楽所領2000石は五ツ物成で、分配内訳は以下の通りであった。
{| class="wikitable"
{|
|家領米||style="text-align: right"|510[[石高|石]]||三方17名ずつ計51名に10石ずつ
|-
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|稽古料||style="text-align: right"|200石||51名以外に給する
|-
|!||!!style="text-align: right"|1000石||!!(五ツ物成)
|}