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=== 皇帝の定着 ===
始皇帝は自身から始めて二世皇帝、三世皇帝と続かせる意図であったが、その死後は反乱が相次いだため、秦の皇帝は2代で終わった。始皇帝から数えて3代目の[[子嬰|嬴子嬰]]は、始皇帝死後の反乱によって中国全土を支配することができなかったため、単に「王」と称した。反乱を起こした者たちもまた、次々と各地で「王」を称した。中でも、戦国時代の楚王の末裔である[[義帝|懐王心]]は、[[項籍|項羽]]・[[劉邦]]などの助けもあり、秦を滅ぼした後に、各地に並び立った「王」よりも一段上の称号として「帝」の称号を名乗った([[義帝]])。その後、義帝を殺した項羽は「西楚の[[覇王]]」を称した。項羽を倒した[[劉邦]]は[[漢]]の「皇帝」に即位し、以後、歴代の中国の支配者は「皇帝」を名乗るようになった。さらに劉邦は、一族や功臣を「王」([[諸侯王]])として各地に封じた。これにより、皇帝が王を封じるという図式が成立した。また、「帝」は「皇帝」の略として広く使われるようになった。
 
ただし[[唐]]代には、[[高宗 (唐)|高宗]]が皇后[[武則天]]の影響で「[[天皇大帝]]」という別称を採用した時期もあった。
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=== 皇帝の乱立 ===
[[三国時代 (中国)|三国時代]]、中原を支配した[[魏 (三国)|魏]]のみならず、[[呉 (三国)|呉]][[蜀]]の君主もそれぞれ皇帝を称し、[[五胡十六国時代]]や[[五代十国時代]]など中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]には2人以上の皇帝が同時に存在した。
 
軍事力に劣った[[北宋]]の皇帝は、北の異民族王朝である[[遼]][[金 (王朝)|金]]の君主を皇帝と認めた上で自らを格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付け、辛うじて面子を保たざるを得ず、中国君主が地上の唯一の皇帝であるという東アジアにおける理念を自ら覆した。金と[[南宋]]に至っては、南宋の皇帝のほうが格下という位置付けになってしまった。
 
また、中国の皇帝の[[冊封|冊封体制]]にない、[[日本]]の[[天皇]]のような君主は、自らを皇帝として、周辺諸国に君臨した。[[朝鮮]]の[[高麗]]朝の草創期や[[ベトナム|ヴェトナム]]の[[阮朝]]のように、中国王朝に[[朝貢]]しながら国内に向けては密かに皇帝を称することもあった。