「江本孟紀」の版間の差分

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南海へ入団した初日、グラウンドへリンカーンを乗りつけて降りた[[野村克也]]は、「お前ら、オレみたいに良い車乗りたかったらしっかり練習して頑張れや」と憎たらしい顔で言ったという。また、煙草を吸った野村から「お前なぁ、敗戦処理でよう投げてきよったけど…お前のボール、オレが受けたらお前は二桁勝つぞ」と言われ、背番号16を渡された。江本は、「東映よりは全然良かった。東映は恐ろしかった。[[張本勲|張本さん]]に[[白仁天|白さん]]に[[大杉勝男|大杉さん]]。南海は[[門田博光|門田]]とか同級生がいっぱいいたし、全然違和感なかった<ref>{{Cite book |和書 |title = 南海ホークス栄光の歴史 1938-1988 |year = 2012 |publisher = [[ベースボール・マガジン社]] |page = 34 |isbn = 9784583618876}}</ref>」「東映では49番でしたから、(16を渡されて)電気が走りました。人間って一言で変わるんですよ<ref name="阿川江本"/>」と語っている。野村の一言で発奮した江本は、{{by|1972年}}から先発ローテーションに加わり、背番号と同じ16勝を挙げ[[西岡三四郎]]と並ぶ南海のエース級投手へと成長した。{{by|1973年}}も12勝を挙げてチームの前期優勝に貢献、[[1973年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]第5戦(対[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]戦)においても9回二死・一打同点の場面で、代打本塁打世界記録保持者である[[高井保弘]]を迎えたところで、[[佐藤道郎]]に代わって登板して三振を奪い、胴上げ投手となった<ref>江本はこの時投球のための準備を全くしておらず、審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている。</ref>。日本シリーズ(対[[読売ジャイアンツ]]戦)においても第1戦の先発投手を野村から指名され、[[土井正三]]と[[森祇晶|森昌彦]]に本塁打を浴びたが、3失点で完投勝利を挙げた。しかし、第4戦では2回4失点(自責点は0)で敗れ、日本一は逃した<ref>野球バカは死なず、P143-144</ref>。{{by|1974年}}には[[1974年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも出場、第2戦では先発投手を務めた。
 
ところが、リーグ優勝の前後から、野村の愛人である伊東芳枝(のちの[[野村沙知代]])が野村の威を借りて球団内で我が物顔に振舞うようになり、本拠地・[[大阪球場]]へ電話をかけて直接選手起用に口出しするなど、次第に現場への介入を強めていた。し、このため、チーム内には野村への不満が渦巻くようになり、それと比例するように、優勝翌年の1974年は3位、{{by|1975年}}は5位と、野村南海は次第に順位を落としていった。1975年オフには、とうとう我慢の限界に達した選手たちが芳枝の排除を要求する事態に発展し、11月に江本と西岡三四郎、[[藤原満]]の3人がチームを代表して、大阪市内のホテルで野村に「公私混同を止めて下さい」と直訴した<ref>『野球バカは死なず』157-158頁</ref>。しかし、江本らの必死の訴えは聞き入れられることはなく、かえって野村の不興を買い、12月に4対2の[[交換トレード]]で[[阪神タイガース]]に放出された(南海からは江本と[[島野育夫]]、[[長谷川勉]]、[[池内豊 (野球)|池内豊]]。阪神からは[[江夏豊]]、[[望月充]])。この時、江本と同様に首謀者と見なされた西岡も[[中日ドラゴンズ]]へとトレードされている。このトレードについて、江本を格下に見ていた江夏との間で激しい舌戦を繰り広げたが後に和解し、[[1993年]]3月に江夏が[[覚せい剤取締法|覚醒剤取締法]]違反で逮捕された際には、江本も法廷で情状陳述を行い<ref>{{Cite web|url=http://menzine.jp/trivia/enatuemototoreedo9543/ |title=「江」が付く投手はみんな無頼派!?江夏と江本の大型トレード |publisher=MEN人|date=2013-08-25|accessdate=2016-01-24}}</ref>、服役中も面会に訪れるなど、江夏をサポートする間柄となった。
 
=== 阪神時代 ===