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[[1878年]]([[明治]]11年)[[10月1日]]、[[秋田県]][[北秋田郡]][[大館町]](現在の同県[[大館市]])に生まれる<ref name="揚幕社14" />。
 
東京に移り、満18歳を迎える1896年(明治29年)、[[東京府]][[東京市]][[神田区]]三崎町(現在の[[東京都]][[千代田区]][[三崎町 (千代区)|三崎町]])にあった、[[川上音二郎]]の川上座(のちの改良座、現存せず)で初舞台を踏んだ<ref name="揚幕社14" />。以降、新派の舞台俳優として、各地の舞台に立った<ref name="揚幕社14" />。1918年(大正7年)に発行された『花形活動俳優内証話』によれば、東京に来た経緯は、地元の[[旧制中学校]]を2年で中途退学して東京に移り、[[専修学校 (旧制)|専修学校]](現在の[[専修大学]])に入学、その後、[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]](現在の[[早稲田大学]])に移ったとされている<ref name="天野78" />。同書には、[[佐藤歳三]]、[[井上正夫]]の一座にいたこともあるという記述もある<ref name="天野78" />。
 
[[田村成義]]の『續々歌舞伎年代記』によれば、1901年(明治34年)1月には改良座の『有喜世御殿』に出演、「執事岩淵猛」を演じたほか、同年2月の同座では『狂美人』の「川口包明」、同年3月の同座では『あたりやおきん』の「支那人阿轅・栗野外交官」、同年8月の同座での『財産の行衛』で「渡邊文吉」、1902年(明治35年)7月、[[浅草]]の[[宮戸座]]で『新華族』の「井上甚六・番頭久七」、同年8月、改良座にもどって『當り的』で「書生君塚覚」、翌1903年(明治36年)4月、浅草・[[常盤座]]での『後のお梅』で「寺男八助」を演じた記録が残っている<ref>[[田村成義|田村]][1922], p.890, 895, 899, 915, 950, 955, 980.</ref>。