「ユーゴスラビア紛争」の版間の差分

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1990年近くになると、ソ連国内においては[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]指導による民主化が進み、ルーマニアにおける[[ニコラエ・チャウシェスク|チャウシェスク]]処刑に代表される[[東欧革命|東欧民主化]]で東側世界に民主化が広がり共産主義が否定されると、ユーゴにおいても共産党による一党独裁を廃止して自由選挙を行うことを決定し、ユーゴを構成する各国ではチトー時代の体制からの脱却を開始する。また、各国では[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]](セルビア)や[[フラニョ・トゥジマン]](クロアチア)に代表されるような民族主義者が政権を握り始めていた。ユーゴの中心・[[セルビア社会主義共和国|セルビア共和国]]では[[大セルビア]]主義を掲げたスロボダン・ミロシェヴィッチが大統領となり、[[アルバニア]]系住民の多い[[コソボ社会主義自治州]]の併合を強行しようとすると、コソボは反発して[[1990年]]7月に独立を宣言し、これをきっかけにユーゴスラビア国内は内戦状態となった。
 
[[1991年]]6月に文化的・宗教的に西側に近い[[スロベニア]]が10日間の地上戦で独立を達成し([[十日間戦争]])、次いで[[マケドニア共和国]]が独立、ついで歴史を通じてセルビアと最も対立していた[[クロアチア]]が激しい戦争を経て独立した([[クロアチア紛争]])。[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]は[[1992年]]に独立したが、国内のセルビア人がボスニアからの独立を目指して戦争を繰り返した([[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]])。セルビア国内でもコソボ自治州が独立を目指したが、セルビアの軍事侵攻によって戦争となった([[コソボ紛争]])。その後、[[マケドニア]]国内に大量のコソボ地域の[[アルバニア]]系住民が[[マケドニア]]国内に難民として大量に押し寄せてたことから、マケドニアにも飛び火した([[マケドニア紛争]])。
 
紛争は[[北大西洋条約機構|NATO]]や[[国際連合]]の介入により収束した。