「市川團十郎 (8代目)」の版間の差分

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面長の美貌で、歴代の團十郎とはまったく[[ニン|仁]]の異なる[[二枚目]]役者だった。[[天保の改革]]によって一時深刻な不況をこうむった江戸の芝居町に人出が戻ったのは、八代目團十郎に負うところが大きかった。上品ななかに独特の色気があり、おっとりとした愛嬌が身にそなわって、嫌味がなかったという。当時の批評には「男振りはすぐれて美男子といふにあらねど、いはゆる粋で高等で人柄で、色気はこぼれる程あれどもいやみでなく、すまして居れども愛嬌があり」(『俳優百面相』)とある。さわやかで高音の利いた調子の[[科白]]回しがうまく、こうした特色は彼が初演した『[[与話情浮名横櫛]]』(切られ与三)の与三郎によくあらわれている。
 
[[嘉永]]7年([[1854年]])、[[大阪市|大坂]]の芝居に出演していた父・海老蔵を訪ねて[[東海道#江戸時代|東海道]]をのぼり、[[名古屋市|名古屋]]で父といっしょになって舞台をつとめた。7月中には大坂に着き、[[道頓堀]]で[[船乗込み]]を行って[[稽古]]にかかったが、初日に[[旅館]]の一室で突如自殺する。享年32。動機は不明だが、一説には図らずも大坂の芝居に出演することになってしまったため江戸の座元(劇場所有者)への義理を立てたといわれる。天王寺村の[[一心寺]]に葬る。法名は浄筵信士<ref>{{Cite book|和書|author=野崎左文|year=2007|title=増補私の見た明治文壇1|publisher=平凡社|pages=152p}}</ref>。
 
得意な役柄は『切られ与三』の与三郎のほかに、『[[菅原伝授手習鑑]]』の梅王、『[[児雷也豪傑譚]]』の児雷也、『[[助六所縁江戸桜]]』の花川戸助六、『[[偐紫田舎源氏]]』の足利光氏などの二枚目のほか荒事も好んでつとめた。[[市川宗家]]の芸に和事芸という新しい分野を開拓、その芸の系譜は[[市川團十郎 (11代目)|十一代目團十郎]]に引き継がれることになる。