「土井利位」の版間の差分

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古河市で現在も雪華模様が使われていることを追記。
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| 墓所 = [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]][[紅葉丘]]の誓願寺<br/>[[茨城県]][[古河市]]大手町の[[正定寺 (古河市大手町)|正定寺]]
| 官位 = [[従五位]]下、[[従四位]]下、[[侍従]]。大炊頭、主膳正
| 幕府 = [[江戸幕府]] [[奏者番]][[寺社奉行]][[大坂城代]]<br />[[京都所司代]][[老中]]首座
| 藩 = [[下総国|下総]][[古河藩]]主
| 氏族 = [[土井氏]]
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== 生涯 ==
[[寛政]]元年(1789年)5月22日、[[三河国|三河]][[刈谷藩]]主[[土井利徳]]の四男として生まれる。本家の古河藩主[[土井利厚]]の実子が早世していたため、[[文化 (元号)|文化]]10年([[1813年]])3月18日にその養子に迎えられた。同年閏11月15日、[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家斉]]に[[御目見]]する。同年12月16日、[[従五位下]]主膳正に叙任する。[[文政]]5年([[1822年]])8月23日に養父が死去したため、[[家督]]を継いだ。それにともない、官名を大炊頭に改めた。
 
文政6年([[1823年]])5月29日に[[奏者番]]となり、文政8年5月24日に[[寺社奉行]]と兼ねる。文政11年12月16日に寺社奉行を辞めたものの、文政13年11月8日に再び兼ねる。[[天保]]5年([[1834年]])4月11日に[[大坂城代]]となり、従四位下に昇進する。大坂城代在任中に[[大坂町奉行]]組[[与力]]の[[大塩平八郎]]が武装蜂起し([[大塩平八郎の乱]])、その鎮圧を担当した。その功績により、天保8年5月16日[[京都所司代]]に抜擢された。それにともない、侍従に任官した。[[天保]]9年4月11日に西丸老中、翌年12月6日に本丸[[老中]]に任命された。
 
藩政においても[[天保]]2年([[1831年]])から[[鷹見泉石]]を家老に登用し、[[藩政改革]]を行なっている。
 
天保12年([[1841年]])1月に[[大御所 (江戸時代)|大御所]][[徳川家斉]]が死去し、5月に老中首座[[水野忠邦]]による[[天保の改革]]が始まると、利位は忠邦に協力して改革に参与した。ところが天保14年([[1843年]])、忠邦が打ち出した[[江戸]]・[[畿内]]周辺に対する[[上知令]]に関しては、自らの所領が[[畿内]]にもあったために反対し、反水野派の中心人物となる。水野派の[[鳥居耀蔵]]らの裏切りもあって忠邦を辞任に追い込み、その後を受けて老中首座に任命された。
 
利位は幕府財政再建のため、水野時代から続いていた倹約令を継続し、さらに百姓や[[旗本]]の生活苦を救うため救済策に尽力する一方で、弛緩していた[[武士道]]の引き締めにも力を入れるなどしている。利位の老中首座としての幕政担当期間は10カ月という短期間であるが、[[大坂]]で米の[[先物取引]]を行なうなどして一時的に幕府財政を黒字に好転させるなど、手腕を発揮しているのも確かである。この時に協力をしていたのは[[旗本]]の[[向山源太夫]]だった<ref>{{Cite book|和書|author=大口勇次郎|year=2002|title=国史大辞典|publisher=吉川弘文館|pages=593p}}</ref>。
 
ところが天保15年([[1844年]])、[[江戸城]]本丸に火災が起こり、その再建のための資金調達を第12代将軍[[徳川家慶]]に命じられたが、利位は諸大名から十分な献金を集めることが出来ずに家慶の不興を買い、った。さらに6月21日には[[オランダ]]をはじめとする外国問題の紛糾もあって、水野忠邦が老中首座として復帰してしまう。このため、同年10月12日に利位は忠邦の報復を恐れて自ら老中を辞任した。
 
[[嘉永]]元年(1848年)4月25日、養子の[[土井利亨|利亨]]に家督を譲って[[隠居]]する。それにともない、官名を織部正に改めた。直後の7月2日に死去した。[[享年]]60。
 
== 人物・逸話 ==
*[[大阪市]][[天王寺区]]にあった[[鏡如庵]](きょうにょあん)の通称である[[どんどろ大師]]の語源は、利位が[[大坂城代]]の在任中([[1834年]] - [[1837年]])の大坂城代屋敷が鏡如庵の近くにあり、利位が鏡如庵に祀られている[[弘法大師]]を深く信仰して、折々に参拝していたために、「土井殿大師」(どいどのだいし)の名前が起こり、やがて「どんどろ大師」へ転訛したと伝えられる。鏡如庵は[[明治]]初期に廃寺となり、その跡地には現在、[[どんどろ大師 善福寺]]([[高野山真言宗]])がある。利位との関連ははっきりしていないが、現在、境内に土井氏と刻まれた[[五輪塔]]が残っている。[[歌舞伎]]『[[傾城阿波の鳴門]]」・「』『[[国訛嫩笈摺]](くになまりふたばのおいずる)に「どんどろ大師 門前の場」がある。
[[ファイル:Sekka zusetsu.jpg|thumb|240px|right|土井利位『[[雪華図説]]』。[[天保]]3年(1832年)刊。[[国立科学博物館]]の展示]]
*日本で初めて[[雪]]の結晶を[[顕微鏡]]で観察した人物として知られている。蘭学者であった家老[[鷹見泉石]]の協力の下、20年にわたり雪の結晶を観察し、雪の結晶を「雪華」と命名して、観察結果を『[[雪華図説]]』『続雪華図説』にまとめ出版した。この書には、14か条の雪の効能と86種の雪の結晶図が刊行された。『雪華図説』『続雪華図説』は私家版で出版数も少なかったが、掲載されている結晶図はテキスタイルパターンとして取り入れられ、[[雪華模様]]の衣装が流行した。そのため、庶民から「雪の殿様」の愛称で親しまれた。雪華模様の別名「大炊模様」は、利位の官名からとられている。所領があった[[茨城県]][[古河市]]では現代でも、市立小学校の校章や歩道などに使われている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190117/dde/014/040/008000c 【没後200年 伊能忠敬を歩く】(9)茨城の「小京都」古河 家老の絵地図に「接触」の謎]の補足記事「藩主は自然科学者」より。『[[毎日新聞]]』夕刊2019年1月17日(文化面)2019年1月26日閲覧。</ref>。      
 
== 年譜 ==
* [[寛政]]元年(1789年)、分家筋に当たる刈谷土井家の[[土井利徳]]の四男として[[三河国]]刈谷(現在の[[愛知県]][[刈谷市]])に生まれる。25歳で古河藩主[[土井利厚]]の養子となる。
* [[文政]]5年([[1822年]])、養父の死去に伴い古河藩主となる。
* 文政8年([[1825年]])、[[寺社奉行]]に就任([[1829年]]に退任したが、[[1830年]]から1834年に再任)。
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* 天保10年([[1839年]])、[[老中]]に就任。
* 天保15年([[1844年]])、老中を辞任。
* [[嘉永]]元年(1848年)、死去。
 
== 著書 ==
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* [[鷹井伶]] 『雪の殿様』([[白泉社]]、2015年) ISBN 4592831284 
=== 映画 ===
* [[十三人の刺客]](1963年、[[東映]]、演:[[丹波哲郎]])
* [[十三人の刺客 (2010年の映画)|十三人の刺客]](2010年、「十三人の刺客」製作委員会、演:[[平幹二朗]])
=== テレビドラマ ===
* [[遠山の金さん捕物帳]](1970年 - 1973年、[[NET]]・東映、演:[[河上一夫]]<ref>[[永野辰弥|永野達雄]]代演の回あり</ref><ref>初期の回では、「'''土井利和'''」と表記されていた。</ref>
* [[十三人の刺客#リメイク|十三人の刺客]](1990年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[仕事 (企業)|仕事]]・[[映像京都]]、演:丹波哲郎)
 
== 脚注 ==