メインメニューを開く

差分

編集の要約なし
後に石仙<ref>寂仙・上仙とも云われ同一人物とみられている</ref>(しゃくせん)が[[桓武天皇]]([[782年]]〜[[805年]])の病気平癒を[[祈願]]し[[成就]]したことによって当地に[[七堂伽藍]]が建てられ勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜され、石仙には菩薩号を賜ったと伝えられる。さらに『三教指帰』に[[空海]](弘法大師)自ら記されているように空海も若い時に石鎚山で修行をし、後年、当寺を巡錫している。また、[[文徳天皇]]、[[高倉天皇]]、[[後鳥羽天皇]]、[[順徳天皇]]、[[後醍醐天皇]]など多くの歴代[[天皇]]の[[信仰]]が厚かったことでも知られる。なお、当寺は山頂の弥山に存在する[[石鉄権現|石鈇山大権現]]の[[別当寺]]で、東の遥拝所でもあった。
 
江戸時代初期には、札所としての便宜をはかるため麓に出張所として里前神寺(現在の石鎚神社口之宮本社の場所)を設置し、本寺を奥前神寺と呼び区分するようになった。真念の『四国遍路道指南(1687年刊)』には、里前神寺は前札所で本札所は麓より12里の石づち山前神寺(奥前神寺)と書かれていて、寂本の『四国遍礼霊場記(1689年刊)』には、奥前神寺は本堂護摩堂その他堂宇相連なり本社は拝殿釣殿奥殿の重層で多数の摂社がありと壮大な伽藍であったことを表している。その後の四国遍礼名所図会(1800年刊)になると里前神寺が主流になり奥前神寺は注釈程度しか記されなくなっている。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は、6月1日から3日の三日間しか許されていなかった<ref>寂本『四国遍礼霊場記』の里前神寺の項より</ref>。また、[[西条藩]]主である[[松平家]]の信仰も集め松平頼純は寛文10年(1670年)[[東照宮]]を里前神寺にまつり、[[三葉葵]]の寺紋を許した。
 
文政81700(1825)代初期頃には別当を名乗るようになっていた[[横峰寺]]と別当職の独占を争い明和6年(1769)<ref>その裁定が文政8年(1825)であるという説もあり</ref>幕府の裁定を受け、勝つことができたため、奥前神寺は常住社、里前神寺は前神寺と称するようになった。その後の『四国遍礼名所図会(1800年刊)』を見ると最上段に本社があ一段下に堂さらに下に大師堂さらに下に本坊と現在石鎚神社口之宮本社の配置と同様で壮大な伽藍になっており本寺機能が里に移されていようのがわかり、石鈇山は常参ることが出来めここで拝すと64番札所が確定している
[[File:Maeɡamizi ɨɨ.jpg|180px|thumb|前神寺と石鎚神社]]
[[明治]]の[[神仏分離令]]により、常住社(奥前神寺)と前神寺(里前神寺)ともに石鎚神社となり、当寺は廃寺となる。また、東照宮は明治5年西条市大町に西条東照宮として移転した<ref>その後の明治16年に西條神社に改称。西條神社の案内看板より</ref>。なお、廃寺となり前神寺を出る時、本尊と権現像と僅かの寺宝は持ち出し、その後、[[1878年]]([[明治]]11年)に塔頭寺院の医王院のあった現在地に前上寺として復興され、1907年、前神寺の旧称に復す。奥前神寺は、今宮道の最終地点に再興され、さらに[[石鎚登山ロープウェイ]]の開通(1969年開業)の翌年に山上駅の上の現在地に移転される。
6,023

回編集